子供かカネか

みたいな話はよく見るんだが、どうにも解せないというか、いつまでも議論が深まらないので不思議に思ってることがある。

つまり、コストとベネフィットで考えると子育ては割に合わなくて云々…を言う人たちの言説は、最終的に我々は全員死んでしまうという事実から目を背けてるんじゃないのか、ということだ。

人生は幸福量の増大を目的とする。これは現代文明の最大公約数的同意事項だと思っているのだけど、反面、人生には究極的には等しく意味がない。1万年前の地球と1万年後の地球を比べれば、人類の爪痕はおそらく観測可能であるだろう。しかし、そこに個人の痕跡は存在しない。そもそも、残っていようがいまいが何の違いもない。我々は誰もが即座に死んでも構わない生を生きている。

だから逆説的に、個人の中に生ずる執着だけが生きる意味として残る。幸福の追求というのは、実はそういうことだと思う。

カネは墓には持っていけないので、あたかも客観基準であるかのように語られる損得も、詰まるところは自己満足にすぎない。子供ってそういうのの外側にあるよね…? というのが中年の実感である。

そして子供が居ると、行く末に興味がわく程度には執着が生まれるような感触がある。永続する執着が残ることが最終的な価値ならば、カネよりは子供なんだろう。

晩年に実効性のない誓詞を取ることに汲々とした豊臣秀吉のように、それまでの評価が一変するほど愚かなことを最後の最後にやる人がいるが、あれはその時の自分の価値観の中で、後世の目から見た毀誉褒貶とか、自分の人生を作品として完成させることよりも、子供が何より大事だったのだろうと考えると、少し納得感が出る。

そんな風に、「生物としてのヒト」が形而上的な「人格」を上回る場面が、いずれ来るのであれば、先回りして生物の「自然」に乗っかり、子供を作っちゃっても悪くないんでないかな、と思うんだよね。あと、トシを食うと自分の中に謎がぜんぜん無くなって、あとはトボトボと歩いていくだけみたいな感じになるんだけど、子供ができると自分のモードが変わったりするのも観察できて飽きない、というのもある。

まあ、子供を残したからと言って、自分という人格の何かが残るわけでもないんだけどね。これもやはり、完全には満たされることのない自己満足を求める行為にすぎない。たんに遺伝的サポートがあるから満足度が高いかも、というだけのことだ。

やはり自分自身を電脳化しないとアカンようである。しかし、電脳化した人の執着って、どこに向かうのだろうか。