ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』

『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリの新作、『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』を読みました。((上) https://amzn.to/2XP8r3D (下) https://amzn.to/2XJrlsz )

一度読んだだけだと全体の流れが把握できず、多数の資料から導かれる鋭い考察や警句、示されていく見識がおもしろい…というだけで終わってしまう感じだったこの本。自力で要約してみることで、それぞれの記述がなぜそこにあるのかがどうにか理解できた感じ。

あらすじとしては、人類がこれまでの課題を克服しつつあること、これまでの歴史で起きてきた認知革命、農業革命、科学革命の本質と、それぞれに関連した宗教について考察し、現代の最大の宗教勢力である人間至上主義が危機を迎えていること、これからの時代に何が支配的になるかが書かれています。

本書は著者の思考の積み重ねの様子ではなく、上記のようなたくさんの細部を著者の見解で繋げて提示し、そこにコメントを加えていく形で構成されています。

しかし作者が言いたいことは一章にあって、つまり、史学とは過去に起きたことを調べて人類が囚われている制約を描き出し、そこから自由になるためにある、ということが大事なのだなと思いました。その材料を提供する本なのです。

逆に言うと、人類の囚われている制約をきちんと認識するためには、細かい事実を積み重ねる根気や知力と、そこから導き出されるものと正面から向い合う覚悟が必要であるということを、筆者は自分の見てきたものを延々と書き連ねることで描き出しているのかもしれない。

以下は自分の作った要約です。ちょっと方針が定まらず、最後の方は疲労で要点の引用ばかりになってたりしますが、楽しかったのでそのまま置いておきます。


ホモ・デウス要約

本書は『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリの新作である。

飢餓と貧困と戦争という長く直面してきた課題をかなりの度合まで解決した人類は、21世紀以降は歴史の必然として不死と至福と神性の探求に取り組むようになる。これがなぜ起きるか、またその帰結としてどんなことが起きうるかという可能性を史学的観察に基づき論じている。

第1章 人類が新たに取り組むべきこと

生物学的貧困線/見えない大軍団/ジャングルの法則を打破する/死の末日/幸福に対する権利/地球という惑星の神々/誰かブレーキを踏んでもらえませんか?/知識のパラドックス/芝生小史/第一幕の銃

本章はイントロダクションである。

飢餓、病気、戦争がいかに人類を脅かしてきたかを解説し、これを21世紀の人類が統計的にはほぼ解決していることを示す。

こうした大問題が解決されても、資本主義および人間の生理学的方向性から、人類は不可避的になんらかの問題を追求せざるをえないことを解説する。

また人類の次の問題がどのようなものになるかを考察し、それは死の克服、および幸福の(幸福感の)追求であると結論づける。そして目的が治療、死の回避、不幸の回避であったとしても、それにより開発された技術を、より積極的な、自分のアップグレードに使用する者があらわれるのは不可避である。

生物学的限界を突破して心身を操作し、拡張することができるようになれば、それは(唯一神ではなくギリシャの神々のような意味で)神である。追求は医学・生物学的に、そして資本主義的におこなわれるので、神になるのは人類のごく一部である。彼らの人生の状況は通常の人類と大きく変わる可能性が高い。

「サピエンスのアップグレードは、ハリウッド映画に描かれるような突然の大惨事ではなく、徐々に進む歴史的過程となるだろう。ホモ・サピエンスがロボットの反乱で皆殺しになったりはしない。むしろ、ホモ・サピエンスは一歩一歩自分をアップグレードし、その過程でロボットやコンピューターと一体化していき、ついにある日、私たちの子孫が過去を振り返ると、自分たちがもはや、聖書を書いたり、万里の長城を築いたり、チャールズ・チャップリンのおどけに笑ったりした種類の動物ではなくなっていることに気づくということになるだろう。」

しかし科学者の「ずっと先」とは数十年以内のことかもしれない。人類の歩みを歴史的に振り返り、その傾向から導き出される未来を考察することは、そうした未来の「必然」から自由になるために必要なプロセスであり、それが本書の目的である。予測は予言ではなく、現在の選択肢を考察する方便である。たとえばマルクスの論を「資本家も」読むことができて、その最良の部分を取り入れたがために、資本主義体制の崩壊という予測が外れたことは、予測を知って行動を変えたために運命が変わった例である(歴史の知識のパラドックス)。

大変動は必ずしも悪いことではない。ファラオは3000年間エジプトに君臨し、ローマ教皇はヨーロッパを1000年間支配した。その時代に生きる人々に「ファラオはいずれ地上から姿を消す」とか「神は数世紀以内に死ぬ」と告げれば彼らは嘆くだろうが、それは悪いことではなかった。人間至上主義の破綻も有益かもしれない。

第1部 ホモ・サピエンスが世界を征服する

ホモ・サピエンスと他の動物たちとの関係を取り上げ、なぜこの種が特別なのかを理解する。超人がその他の人類をどのように扱うかを知りたければ、人間が自分より知能の低い仲間の動物たちをどう扱うかを詳しく調べるとこから始めるとよい。

第2章 人新世 上93

ヘビの子供たち/祖先の欲求/生き物はアルゴリズム/農耕の取り決め/五百年の孤独

他の動物たちにしてみれば、人間はすでにとうの昔に神である。地球上には20万頭の狼に対して4億頭以上のイヌ、4万頭のライオンに対して6億頭以上の飼い猫、90万頭のアフリカスイギュウに対して15億頭の家畜牛、5000万羽のペンギンに対して2000億羽のニワトリがいる。更新世鮮新世、中新世のような年代区分では現在は完新世と呼ばれるが、過去7万年は人新世と呼ぶほうがふさわしいかもしれない。ホモ・サピエンスが地球の生態環境に変化をもたらすもっとも重要な存在になっているからだ。

狩猟採集民はおそらくアミニズムを信奉していた。聖書は古典のアミニズム信仰の痕跡を隠したが、聖書もそこにある人間は独特であるという信念も、農業革命の産物である。有神論はどれも神の崇拝を通じて人類を特別視する。すべての農耕宗教は人間の優位性と動物の利用を正当化する論理を持っている。

農業革命は人類にも家畜にも巨大な繁栄をもたらしつつ不幸にした。これは生物個体の主観的経験が農業革命前に形成されたまま変化していないからだ。こうした情動はアルゴリズムに還元できる。生物の情動は非常に複雑なものだがアルゴリズムにすぎないという結論に生物学者は達している★。アルゴリズムであるからといって、情動の欲求を否定すれば不幸になることを人類は人類については納得しつつあるが、家畜にはそれを強い続けている。

科学革命により神も死に、世界は今や人類のワンマンショーになっている。科学を使うとき人類は科学に協力を求めたり見返りを与えたりしない。

農業革命が有神論の宗教を生み出したのと同様に、科学革命は人間至上主義の宗教を生み、神に取って代わった。人間至上主義は人間を崇拝する。

自由主義共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる。

「現代の科学が感染症と病原体と抗生物質の秘密を改名してしまうと、工業化された檻や囲いや小屋の実現が可能になった。

「そのような慣行は、近年、人間と動物の関係を人々が見直し始めたため、しだいに批判にさらされるようになってきた。

「もしコンピュータープログラムが人間を超える知能と空前の力を獲得することがあれば、私たちはそのようなプログラムを人間以上に高く評価し始めるべきなのか?

第3章 人間の輝き 上128

チャールズ・ダーウィンを怖がるのは誰か?/証券取引所には意識がない理由/生命の方程式/実験室のラットたちの憂鬱な生活/自己意識のあるチンパンジー/賢い馬/革命万歳!/セックスとバイオレンスを超えて/意味のウェブ/夢と虚構が支配する世界

人間がこの世界でいちばん強力な種であることは疑いもない。しかし人間の価値が他の生物より高いという一般的で強烈な欲求が正しいかどうかは明白ではない。ブタの子供より人間の子供を優遇するとき、生態的な力の均衡よりもなにか深いものを反映していると信じたがるが、その人間特有の輝きとは何か。伝統的な一神教で人間だけが持つとされる「不滅の魂」は否定されている。

  • 進化論が今も激しく否定されているのは、こうした魂を否定するからである。(チャールズ・ダーウィンを怖がるのは誰か?)
  • 意識ある心を持っているのはホモ・サピエンスだけという説もある。心と魂は完全に別物で、魂はストーリーだが心は誰もが経験する実感だ。その由来はまったくわかっていない。ネットワークの複雑性由来ではないことは現代では明らかだ。(証券取引所には意識がない理由)
  • 心・意識・主観的経験の存在は否定し難い。脳にあらわれる電気化学的シグネチャーも判明している。しかし科学の躍進にかかわらず、他人にも自分と同じような心があるかどうかを証明する「他我問題」は克服されていない。(生命の方程式)
  • 心についてはほとんどわかっていないが、それでは動物に心はあるだろうか。サルとマウスの脳は意識のシグネチャーは示す。すべての哺乳類と鳥類、タコなどの多くの生き物には意識ある状態の神経解剖学的基盤、神経生理学的基盤がある。またラットの行動に情動が伴うことを前提に製薬会社は実験を行う。(実験室のラットたちの憂鬱な生活)

人間の優越性を崇める試みのひとつに、動物には意識があるが自己意識がないという主張もあるが、人類もこれと区別がつかない。(自己意識のあるチンパンジー

魂や意識は人間独特の本質ではない。人間の特殊性は人間同士を結びつける能力にある。人間は大勢で柔軟に協力できる唯一の種である。(賢い馬)

大規模な強力の決定的重要性を裏付ける様々な証拠。ローマによるギリシア征服、ロシア革命からエジプト革命まで。(革命万歳!)

人類が世界を支配しているのは協力が上手いから、であれば、個々の人間は神聖ではないのではないか。そもそも何のおかげで人間はこれほどうまく協力できるのか。親密な関係の間では平等などの価値観は人間に根強く、これが霊長類全体に普及していることをサルに最後通牒ゲームをやらせることで確かめることすらできるが、こうした価値観の存在は小さな集団を対象に調べられたものであり、人間の大集団はこれとまったく違った行動を取る。非常に不公平な協力を実現するのは共通の物語という想像上の秩序である。(セックスとバイオレンスを超えて)

「想像上の秩序」概念の解説。客観的現実(重力など)と主観的現実(不定愁訴に分類される痛み)の他に、第三の現実レベルがある。共同主観的レベル(お金、法律、神、帝国など)である。共同主観的レベルの存在は人々がそれを信じなくなると消滅する。 「大勢の人々が共通の物語のネットワークを織り上げた時に生み出される。」 「今から100年後、民主主義と人権の勝ちを信じる私たちの気持ちもやはり、私たちの子孫には理解不能に思えるかもしれない。」 (意味のウェブ)

「サピエンスが世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブを織りなすことができるからだ。」「一方、人文科学は共同主観的なものの決定的な重要性を強調する。そうしたものはホルモンやニューロンに還元することはできない。歴史的に考えるというのは、私たちの想像上の物語の中味には真の力があると認めることだ。もちろん、歴史学者は気候変動や遺伝子の変異といった客観的要因を無視するわけではないが、人々が考え出して信じる物語をはるかに重視するのだ。」 「もし自分たちの将来を知りたければ、ゲノムを解読したり、計算を行ったりするだけでは、とても十分とは言えない。私たちには、この世界に意味を与えている虚構を読み解くことも、絶対に必要なのだ。」 (夢と虚構が支配する世界)

第2部 ホモ・サピエンスが世界に意味を与える

第1部の結論に基づき、ホモ・サピエンスが過去数千年間に作り上げた世界について、また現在の重大な岐路へと導いた道筋について考察する。人間至上主義を信奉するに至った経緯と、この主義が持つ経済的・社会的・政治的意味を見る。

第4章 物語の語り手 上193

紙の上に生きる/聖典/システムはうまくいくが……

人類にとって、共同主観レベルの現実はますます重要になりつつある。主観、客観レベルで生きていた頃に比べ、個体の能力はむしろ弱まっているのに対し、共同主観レベルが持つ物語のウェブはますます強力になり、それにより歴史を石器時代からシリコン時代へと推し進めてきた。これをもたらしたのは7万年前の認知革命である。共同主観的ネットワークの拡大、強化は、農業革命、書字や貨幣の発明によるアルゴリズム化(仕事を分割して手順のそれぞれを分担すること)で進められている。

書字はアルゴリズム化による強力な想像上の存在の出現を促し、虚構の存在を信じやすくする。アリスディス・デ・ソウザ・メンデスや杉原千畝のような個人が組織の決定に背き独断で発行した書類も、組織の他の部分に有効であるのは、人類が紙の上の虚構を信じているからである。文字で表すのは現実を描写するささやかな方法にとどまらず、現実を作り変える強力な方法になっていった。(紙の上に生きる)

書字が現実を覆す例はアフリカの国境、学校の成績、聖典など枚挙にいとまがない。聖書の世界観は人間による大規模な協力に非常に役立ったがために、現実からいかに乖離しようと世界を征服した。(聖典

虚構は我々を上手に協力させるが、虚構によって協力の目標が決まってしまうという代償が伴う。試験の点数が上がることは適切な目標であろうか? 協力ネットワークの評価には基準と観点が必要である。虚構は不可欠だが道具にすぎない。「21世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう。そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を形作ったり、天国も地獄も備わったバーチャル世界をそっくり創造したりすることもできるようになるだろう。したがって、虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる。(システムはうまくいくが……)

第5章 科学と宗教というおかしな夫婦 上220

病原菌と魔物/もしブッダに出会ったら/神を偽造する/聖なる教義/魔女狩り

物語は人間社会の柱石であるが、科学はゲームのルールを変えた。客観的な科学は共同主観の中に存在しないものをもたらし、自ら助けないものさえも助ける。しかし科学は神話を事実で単に置き換えたわけではない。神話の力をむしろ増すことを可能にしている。人々が自分のお気に入りの虚構に合うように現実を加工することができるようになったのは科学のおかげだ。科学の台頭は少なくとも一部の神話と宗教をたつてないほど強力にするだろう。現代の科学は宗教とどう折り合いをつけるだろうか。

宗教を迷信と同一視してはならない。超自然的な力を信じる人はほとんどいない。「宗教は神ではなく人間が創り出したもので、神の存在ではなく社会的な機能によって定義される。人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教だ。」「宗教は、私たちが創作したわけでもなく変えることもできない道徳律の体系に、私たち人間は支配されている、と断言する。」古来の宗教なら神が定めていることが多いが、仏教や同郷や共産主義やナチズムや自由主義は自然の摂理であると主張する。「そうした宗教のどれもが、先覚者や預言者によって見出されたり明かされたりした一連の異なる自然の摂理を信奉している。」(病原菌と魔物)

「宗教と霊性の隔たりは以外にもずっと大きい。宗教が取り決めであるのに対して、霊性は旅だ。」宗教は定められた目標を伴う契約を提示するが、霊的な旅は未知の行き先に向かわせる。霊的な旅は権威からの解放をともない、真実に向かわせるが、それは新しい宗教を生みがちである。(もしブッダに出会ったら)

科学は人間のための実用的な制度を創出するために宗教の助けを必要とする。科学は三峡ダムのメリットとデメリットを比較する材料を提供することはできるが、どちらを選ぶべきか決めることはできない。しかし宗教は価値観についてだけ語ったり倫理的判断を下すだけにとどまらない。事実に関する主張をしなければ実用的な指針を提供できないので、そこで科学と対立する。宗教の物語には、倫理的判断、事実に関する言明、両者を融合させた実際的な指針、という3つの要素が含まれる。妊娠中絶に関する例では、1. 「人の命は神聖である」といった倫理的判断、2.「人の命は受精の瞬間に始まる」といった事実に関する言明、3. 両者を融合させた「受精の1日後でさえ妊娠中絶は許すべきでない」といった実際的な指針がある。このうち事実に関する言明を科学は攻撃できる。(神を偽造する)

倫理的判断と事実に関する言明の区別は簡単でないことがある。宗教には、事実に関する言明を倫理的判断に変えて混乱させることで勝とうとする強い傾向があるからである。倫理的判断の多くに事実に関する言明が含まれているため、科学は倫理的議論に対して普通に考えられているより大きな貢献ができるが、越えられない一線はある。また宗教は科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引換に科学の方針と科学的発見の両方に影響を与える。(聖なる教義)

私たちは科学を世俗主義および寛容の価値観と結びつけて考える事が多いが、科学革命は宗教的狂信者が世界で最も集中した近代前期のヨーロッパで起きた。宗教と科学はともに何よりも真理に関心があり、異なる真理を擁護するために対立すると考えられがちだが、実際は簡単に妥協したり共存したり協力する。宗教は何をおいても秩序に関心があり、科学は何をおいても力に関心があるので、実は両者は相性がよい。「真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まり切らない。」「したがって近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めたほうが、はるかに正確だろう。現代社会は人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためにではなく、それを実行に移すために科学を利用する。」(魔女狩り

第6章 現代の契約 下007

銀行家はなぜチスイコウモリと違うのか?/ミラクルパイ/方舟シンドローム/激しい生存競争

現代とは「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する」という契約である。近代以前の世界では、人間は何らかの宇宙の構想の中で役割を担っていると信じられており、戦争や疫病や旱魃にも意味があった。現代は宇宙の構想を拒み、人生には脚本家も監督も演出家もおらず、意味もない。恐ろしいことが起きても救いに来る者も意味を与えてくれるものもいない。しかし一方で、役割を演じているわけではないなら自由に力を振るうことができる。戦争や疫病や旱魃は根絶すればいいし、死後の楽園はなくとも地上に楽園を生み出せる。あるのは技術的問題だけである。

「現代における力の追求は科学の進歩と経済の成長の間の提携を原動力としている。」経済成長はゼロサムゲームが当然である自然にとっても昔の人類にとっても見たことがないものだった。(銀行家はなぜチスイコウモリと違うのか?)

現代人が信奉する経済成長は・自由市場資本主義は、倫理的判断の領域に踏み込んでいるので宗教の域に達している。(ミラクルパイ)

無限の経済成長は生態環境の破壊を伴うが、成長の教義は、ペースを落とすよりも成長により克服すべきだという。しかし環境の破壊がもたらす影響は社会階級ごとに違う。高いカーストにはハイテクのノアの方舟が造れるが、これで「助かると信じている人々にグローバルな生態環境を任せるべきではない。死んだ後に天国にいけると信じている人々に核兵器を与えるべきではないのと同じ理屈だ。」しかし貧しい人々ほど経済停滞の影響を受け易い。(方舟シンドローム

成長レースは緊張と不安をもたらすが、これによる力の増大の成果を見誤ってはならない。自由市場資本主義を叩くよりも、利点や功績を見失わず、欠点を理解するよう、ありとあらゆる努力をするべきだ。ただし市場の手は盲目であり、現代社会を崩壊から救ったのは人間至上主義である。(激しい生存競争)

第7章 人間至上主義革命 下033

内面を見よ/黄色いレンガの道をたどる/戦争についての真実/人間至上主義の分裂/ベートーヴェンチャック・ベリーより上か?/人間至上主義の宗教戦争/電気と遺伝学とイスラム過激派

「現代の取り決めは私たちに力を提供してくれるが、それには私たちが人生に意味を与えてくれる宇宙の構想の存在を信じるのをやめることが条件となる。ところがこの取決めを詳しく調べてみると…宇宙の構想を基盤とせずに、どうにか意味を見つけてのけられれば、それは契約違反とは見なされないのだ。」

社会の秩序を救済したのは人間至上主義である。神の手になるドラマを演じる役者じゃなくても人生に意味があると確信させるものは人間至上主義である。

伝統的にはうつろいやすい人間という存在は絶対的な神と対比されていたが、いまや人類は自分で善や正義や美を創造し、定義しうるということになった。我々は意味の究極の源泉であり、人間の自由意志こそが最高の権威である。「人間至上主義の倫理における最も興味深い論議は、浮気のように、人間の感情どうしが衝突する状況にかかわるものだ。・・・重要なのは、双方がどんな論拠に頼っているかを理解することだ。浮気について現代人の意見はさまざまだが、彼らはたとえどんな立場を取ろうと、聖典や神の戒律ではなく人間の感情の名において、その立場を正当化する傾向にある。」「神の存在を信じていると言っているときにさえも、じつは私は、自分自身の内なる声のほうを、はるかに強く信じているのだ。」(内面を見よ)

感情を権威の源泉としても、単に内なる自己に耳を傾けようとしても何も聞こえない、または争いの不協和音しか聞こえない。人間至上主義は権威に到達して真の知識を獲得する方法も示す。中世ヨーロッパの知識の公式が「知識=聖書x論理」、科学の知識の公式が「知識=観察に基づくデータx数学」であるのに対し、人間至上主義の知識の公式は「知識=経験x感性」である。経験なくして感性は高まらないし、感性がなければより深い経験は得られない。人間至上主義の人生はロードムービーだ。(黄色いレンガの道をたどる)

「知識=経験x感性」の公式は戦争に対する見方も変えた。「「私は苦しんでいる。そして、これは悪いことだ。したがって、戦争全体が悪い。それでも皇帝や聖職者がこの戦争を支持するのなら、彼らは間違っているに違いない」」(戦争についての真実)

人間至上主義は繁栄の結果3つの主要な宗派にわかれた。正統派の人間至上主義、社会主義的な人間至上主義、進化論的な人間至上主義である。正統派は「どの人間も、独自の内なる声と二度と繰り返されることのない一連の経験を持つ唯一無二の個人である」という認識で、「自由主義」として知られている。社会主義的な人間至上主義は「他のすべての人の経験を考慮に入れたときに初めて、自分が何を感じているかを本当に理解できるのであり、団結した行動によってのみ、制度を変えられるのだ。」と考え、世界を読み解くために集団的組織の設立を提唱する。進化論的な人間至上主義は「人間が戦争を経験するのは有益で、不可欠でさえあると主張」する。戦争は自然選択が思う存分威力を発揮することを可能にし、新しい業績へ押しやると考える。ニーチェ「戦争とは「生命の学校」であり、「私の命を奪わないものは私をより強くする」。」進化論的な人間至上主義は近代以降の文化の形成で重要な役割を演じたし、二一世紀を形作る上で、なおさら大きな役割を果たす可能性が高い。(人間至上主義の分裂)

人間至上主義の三つの分派の理解のための経験の比較の例。進化論的な人間至上主義者: ベートーヴェンチャック・ベリーより優れてると言えないなんて腰抜けだ!(ベートーヴェンチャック・ベリーより上か?)

社会主義的な人間至上主義(共産主義)と進化論的な人間至上主義(ファシズム)はともに自由主義的な人間至上主義を攻撃した。「自由主義の中核を成す考え方が、よくても幼稚、悪くすれば危険そのものとして笑いものにされた。」そしてファシズムを打倒したのは主として共産主義ソ連だった。それでもけっきょく自由主義だけが生き残った。(人間至上主義の宗教戦争

個人主義、人権、民主主義、自由市場という自由主義のパッケージの本格的な代替となりうるものは二〇一六年の時点で存在しない。中国もまだその段階に来ておらず、宗教原理主義は現代のテクノロジーの現実から乖離しているので、現代が投げかける疑問を理解する能力さえ持たない。しかし自由主義がそれに取って代われるものがいないほど成功していることそれ自体に破滅の種があるかもしれない。顧客と有権者自由主義の権威者)により、不死と至福と神聖に手を伸ばさざるを得なくなっているからだ。これらは「自由主義の世界観に固有の欠点と、消費者と有権者の無知無分別の両方を、図らずも暴き出しかねない。」こうした「人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノロジーを解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろう」「もし全宇宙が人間の経験次第だとすれば、人間の経験もまたデザイン可能な製品となってスーパーマーケットに並ぶ他のどんな品物とも本質的に少しも違わなくなったときには、いったい何が起こるのだろう?」(電気と遺伝学とイスラム過激派)

第3部 ホモ・サピエンスによる制御が不能になる

人類と人間至上主義について深い理解に基づいて、人類がたどりうるさまざまな未来を説明する。具体的なケースを精査して今後の動向の手がかりを探る。

第8章 研究室の時限爆弾 下103

どの自己が私なのか?/人生の意味

個人主義と人権と民主主義と自由市場という自由主義のパッケージが世界を支配しているが、自由主義も他のあらゆる宗教と同じで、倫理的判断だけでなく、事実に関する言明をおこなう。しかしこれは厳密な科学的精査には耐えられない。自由意志の存在はそのひとつで、人間は選ぶことができるが、それは自由に選んでいるわけではない。そもそも本質的に自由意志を決定している「自己」がない。

ゆるぎない単一の真の自己は存在しない。人間は分割不能な個人ではなく、さまざまな部分から成る分割可能な存在である。このことを支持する様々な証拠を示す。分離脳、冷水実験(ピーク・エンドの法則)。「経験する自己と物語る自己」。(どの自己が私なのか?)

「物語る自己」の欺瞞性と、それが作る自己概念の虚構性。生命科学がこの物語の欺瞞性を明らかにしても自由主義は崩壊しないが、それが日常的な膨大なテクノロジーや経済構造に転換されれば二重のゲームは続けられなくなる。「民主主義と自由市場と人権は、この洪水を生き延びられるだろうか?」(人生の意味)

第9章 知能と意識の大いなる分離 下 132

無用者階級/八七パーセントの確率/巫女から君主へ/不平等をアップグレードする

自由主義の哲学を切り崩す近年の科学的発見の実際的な意味合いの考察。人間が経済的有用性と軍事的有用性を失う結果、1.経済と政治が人間にあまり価値を付与しなくなる場合、2.集合的な人間には価値を見出しても無類の個人としての人間には価値を認めなくなる場合、3.アップグレードされた超人という新たなエリート層に価値を認めるようになる場合、という三つの脅威を詳しく検討する。歴史的には個人の権利はその経済的軍事的有用性により増大した。テクノロジーによりそうした価値は消えていく。

人類を含め、あらゆる動物は自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合である。アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されず、有機アルゴリズムにできて非有機アルゴリズムには決して再現したり優ったりできないことがあると考える理由はない。また、人間は社会に適応して専門化を続けてきたため、いっそうコンピュータで置き換えやすくなっている。狩猟採集民ロボットを設計するのは非常に難しいが、心臓専門医なら置き換えられる。人間の特性と能力の九九パーセントは現代の仕事の大半にとって過剰でしかなく、特定の職業の特別な能力で人間を凌げば置き換えが可能になる。アルゴリズム所有者に富が集まるか、アルゴリズム自体が法人格を持つかもしれない。「地球のほとんどは人間ではない共同主観的なもの、すなわち国家と企業に合法的に所有されている。」テクノロジーが途方もない豊かさをもたらしたとき、無用の大衆を薬物とコンピューターゲームで満足させておく、という展開は考えられるが、これは「人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念に致命的な一撃を見舞うことになる。」(無用者階級)

個人主義は個人が自分自身に関して他人には発見し得ないことを知りうることを前提にしているが、生き物はアルゴリズムであり、それらは遺伝子と環境圧により形作られて自由に決定を下すことはなく、外部のアルゴリズムからより良く知りうる。集合的には、たとえばGoogleの方がインフルエンザの流行を医療機関より早く知りうる。「私の政治的見解さえ、私自身よりも的確に言い表すことができるようになる」(八七パーセントの確率)

「グーグルやフェイスブックなどのアルゴリズムは、いったん全知の巫女として信頼されれば、おそらく代理人へ、最終的には君主へと進化するだろう。」自分の情報をすべてAIに提供したほうが有益な助言が得られるという理由でそうしていき、個人がサブシステムに分解されて理解されるようになると、「個人というものは宗教的な幻想以外の何者でもないことが明るみに出るだろう。」(巫女から君主へ)

「二〇七〇年には、貧しい人々は今日よりはるかに優れた医療を受けられるだろうが、それでも、彼らと豊かな人々との隔たりはずっと拡がることになる。人は大抵、不運な祖先とではなく、もっと幸運な同時代人と自分を比較する。デトロイトのスラムの貧しいアメリカ人に、あなたは一世紀前の曾祖父母よりもはるかに優れた医療を受けられると言ったところで、その人の慰めにはなりそうにない。」「並外れた身体的能力や情緒的能力や知的能力を持った超人が出現したら、自由主義信仰はどうやって生き延びるのか? そのような超人の経験が、典型的なサピエンスの経験と根本的に違うものになったら、何が起こるのか? 超人は、卑しいサピエンスの泥棒たちの経験を描いた小説に飽き飽きし、一方、平凡な人間は超人の恋愛を題材にしたメロドラマが理解できないとしたらどうなるのか?」「もし科学的な発見とテクノロジーの発展が人類を、大量の無用な人間と少数のアップグレードされた超人エリート層に分割したなら、あるいは、もし権限が人間から知能の高いアルゴリズムの手にそっくり移ったなら、その時には自由主義は崩壊する。そうなったとき、そこに生じる空白を埋め、神のような私達の子孫の、その後の進化を導いていくのは、どんな新しい宗教あるいはイデオロギーなのだろう?」(不平等をアップグレードする)

第10章 意識の大海 下 189

心のスペクトル/恐れの匂いがする/宇宙がぶら下がっている釘

前章で扱ったような状況の中で台頭しそうな宗教はテクノ人間至上主義とデータ教である。本章ではテクノ人間至上主義を見ていく。テクノ人間至上主義はテクノロジーの発達に合わせて自分をアップグレードしていくべきであるという考え方だ。これは「進化論的な人間至上主義が抱いていた古い夢の、アップデート版の一変種だ。」「ヒトラーやその同類が選抜育種や民族浄化によって超人を創造することをもくろんだのに対して、」テクノ人間至上主義はテクノロジーで平和的に目標を達成しようとする。

テクノ人間至上主義は心のアップグレードを目論むが、心のスペクトルはきわめて広く、現在はサンプルがまったく不足である。どのような精神状態を目指すべきかわからないのに、心を正しく改造できるだろうか。心理学論文が扱う人類の心とは心理学の大学生の心だし、世界中のコミュニティを1つ残らず研究してもそれは現代の影響を受けた状態にすぎず、またサピエンス以外の心の世界や、感覚器を異にするコウモリ等の世界をどう想像したらいいかもわからないが、心の(精神状態の)スペクトルはそこまで分布しているであろう。(心のスペクトル)

狩猟採集民が仲間の恐れの匂いを嗅いだような嗅覚的鋭敏さや、目の前の誰かに本当に注意を向ける能力、夢をみる能力などを現代人は失っている。現代人は政治的な必要性と市場の力を反映した方向に能力を偏らせており、アップグレードもその方向になる可能性が高い。「農民なら誰もが知っているとおり、人をいちばんてこずらせるのは、たいてい群れの中の最も賢いヤギで、だから農業革命には動物の心的能力をダウングレードするという側面があった」(恐れの匂いがする)

人間至上主義は自分の心の声を聞こうというが、テクノロジーの進歩は内なる声に耳を傾けるより、それをコントロールしたがる。内心に耳を傾けるよりそれを制御するほうが幸福を増進するからである。「本物の自己などというものがないのなら、どの声を黙らせ、どの声のボリュームを上げるかを、どうやって決めればいいのか?」(宇宙がぶら下がっている釘)

第11章 データ教 下209-246

権力はみな、どこへ行ったのか?/歴史を要約すれば/情報は自由になりたがっている/記録し、アップロードし、シェアしよう!/汝自身を知れ/データフローの中の小波(さざなみ)

森羅万象をデータの流れと捉え、生き物をそれを処理するアルゴリズムと捉えれば、動物がデータを処理する必要はない。膨大なデータの流れは既に人間の処理能力を超えている。経済とは欲望や能力についてのデータを集め、そのデータをもとに決定を下す仕組みであり、自由市場資本主義と共産主義は競合するデータ処理システムである。資本主義の成功をもたらしたのはそれが分散システムだからであるという認識は、経済をデータ処理という観点で捉えている点で重要である。

政治学者も政治制度をデータ処理すステムと解釈するようになってきている。独裁制は集中処理、民主主義は分散処理を好む。二十世紀には分散処理が優位だったが、これは時代に合っていたからにすぎない。二一世紀にデータ処理の条件が変化すると、民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれない。インターネットをめぐるごたごたを見ても判るように、テクノロジーは政治を出し抜く。政治の大きなビジョンは実現しなくなっている。しかし権力の空白状態はめったに長続きしない。(権力はみな、どこへ行ったのか?)

人類を巨大なデータ処理システムとみなしたとき、プロセッサ数(人口)、プロセッサの種類(職業)、プロセッサ間の接続数(交易)、データの流れの自由度(移動の自由)の向上によりこのシステムの効率は高まってきたし、それにより人類は世界を席巻した。このデータ処理システムが生み出す究極のアウトプットは、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造にあるだろう。(歴史を要約すれば)

データ至上主義も物事の正邪を決めようとする宗教へと変わりつつある。至高の価値は「情報の流れ」である。人類が生む「すべてのモノのインターネット」は地球から銀河系全体へ、宇宙全体へと拡大して宇宙データ処理システムになるだろう。データ至上主義が優先するのは「情報の自由」であり、これは「表現の自由」とは異なり、「情報に」与えられる自由である。これは従来の表現の自由と衝突しうる。人間がデータの流れを制御する権利より情報が自由に拡がる権利を優先するからだ。情報の自由には、経済成長を含む計り知れない利点がある。感染症の新たな流行の発見も、輸送システムの合理化(ライドシェア等)も、情報の事由によりもたらされる。(情報は自由になりたがっている)

データフローの一部になりたがっている人は既にたくさんいる。自分のデータが他の人間やコンピューターが生み出すデータとどう結びつくのか実際にはよくわかっていない。データの流れを計画・制御・把握している主体はない。それでも問題ない。「データ至上主義者はデータフローの見えざる手の存在を信じている。」「私たちは本書を通して、人間を他の動物より優れた存在にしているものは何か、繰り返し問うてきた。データ至上主義には、新しい単純な答えがある。「人間は、自分の経験を詩やブログに書いてネットに投稿し、それによってグローバルなデータ処理システムを豊かにできる。だからこそ人間のデータは価値を持つ。オオカミにはそれができない。」(記録し、アップロードし、シェアしよう!)

「データ至上主義は、人間の経験を敵視しているわけではない。人間の経験には本質的な価値はないと考えているだけだ。」「私達のアルゴリズムは二一世紀のデータフローに対処するようには構築されていない。私たちは人間のデータ処理システムをアップグレードしようとするかもしれないが、それでは十分ではないだろう。」「馬をアップグレードしたりせず、引退させた。ホモ・サピエンスについても同じことをする時が来ているのかもしれない。」投票行動の根底にある神経学的な理由もアルゴリズムが知っているとしたら、民主的な選挙をすることにどんな意味があるのか。しかし、そうした偉大なアルゴリズムの源泉は謎である。(汝自身を知れ)

実際には生命が本当にデータフローに還元できるかどうかは疑わしい。また、生命現象とは意思決定にすぎないという見方も疑わしい。データ至上主義の教義を批判的に考察することは二一世紀最大の科学的課題であり、かつ下級の政治的・経済的プロジェクトになりそうだ。しかしデータ至上主義が間違っていたとしても、それが世界を乗っ取ることを必ずしも防げるわけではない。「歴史を通して、人間はグローバルなネットワークを創り出し、そのネットワーク内で果たす機能に応じてあらゆる物を評価してきた。「人間はそのネットワークの中で最も重要な機能を果たしていたので、ネットワークの功績を自分の手柄にして、自らを森羅万象の頂点とみなした。「ところが、私たち人間が自らの機能の重要性をネットワークに譲り渡したときには、私たちはけっきょく森羅万象の頂点ではないことを思い知らされるだろう。「振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波にすぎなかったということになるだろう。」(データフローの中の小波(さざなみ))

「AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているわけではない。本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性の中に気に入らないものがあるなら、それを実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。 とはいえ、新たな形で考えて行動するのは容易ではない。なぜなら私達の思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けているからだ。本書では、その制約を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。」「さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ。」 「生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる。

  1. 科学は1つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
  2. 知能は意識から分離しつつある。
  3. 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムがまもなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。

この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている。

  1. 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
  2. 知能と意識のどちらの方に価値があるのか?
  3. 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?」