皇室を非人間として憲法内で位置付けてるのはアカンやろ、という話が出てた。
それが自然 。現行第20条で保護される点もよい
— Dan Kogai (@dankogai) July 25, 2019
オレもそう思う。「皇室を憲法という国の形を規定するとても重要な法律の中で位置付けなければ気が済まない人たち」への配慮が必要な時代はとっくに終わってる。日本というシステムを現代人が理解可能にすることを優先すべきだ。
ただ、これって皇室の話に限らず、システムというものに対する姿勢の問題であるようにも思う。
われわれの社会は、システムをシンプルに保つ努力が苦手に見える。法体系のスパゲッティぶりは有名だが、法に限らず、複雑きわまりない、例外だらけの、部分部分が互いに矛盾した体系を、いつでもどこでもすぐさま作り上げてしまう。かと思えば、相反するものでも同じカテゴリーに入れるレベルの無神経な体系や、ほかとの関連性に欠けた独自システムも多い。これらは体系立てられていないという点で、逆方向に複雑だ。
こんなふうになってしまうのは、システムを理解したり、その中で思考するのが苦手な人が多いせいかもしれない。やたらに細かかったり、やたらに大雑把な体系は、その体系が作られたとき当事者たちに見えていたものが(「思い」が)、そのまま反映され、そのままになっているものだからだ。
そもそもシステムのことなんか意識しない人が多いのではないか。既に存在してる物には手を付けず、自分の都合を後付けで組み込む。全体のメンテナンスや統合といったシステムレベルの観点はなるべく避けて、将来の実用性問題なども考えない。
これが成り立つのは、システムが使い捨てだからだ。更新時には全部捨てるので、全体としてのシステムには意味がないし、全体を理解するコストはシステムの作成者だけが払えばよい。部分部分がその場の必要性に応じて動作してくれればよいので、当事者は目の前のことに集中できる。みんなが低コストで完成度の高い仕事をするのに便利である。
オレは日本人の文化について考えるとき、その精神をもっとも長く培った江戸時代に立ち戻ることが多いんだけど、システムに関しても、元号が変わると気分が変わり、人が変わると法が変わり、町も大火のたびに新しくなるなど、全体をアップデートする機会がやたらに多かった当時の文化が、このような「日本の方法」が生んだのではないか。これが最適で合理的だった時代がたしかにあるのだ。
これとは逆に、システムをシンプルに維持することに力を注ぐ方法もある。多くの人がシステム全体を理解できるように保つという方法だ。理解できることで、他人に煩わされることなくシステムの中で思考できる。そこに位置づけられない新しい物が出てきたときに、それについて考えられる。この過程でシステムがアップデートされる。
この方法は、集団の力を使ってシステムそのものを前進させる。こうして作られているのが民主制であり、自然科学である…というか、これは自然科学が前進するために編み出した「科学の方法」であり、民主制は科学の方法を社会に適用したものであろう。
「科学の方法」では全体を理解する必要がある。システムを維持するだけで広い範囲に知性コストを要求する。「日本の方法」では個々のシステム利用コストは安く、みんなが「自分のこと」以外を忘れていられる。
ただし「日本の方法」には刷新が必要だ。火事になって強制的に生活を更新させられたり、明文化されていない法を担当奉行の「お裁き」の揺れでカバーできるなら、問題は出ない。ところが自然に更新されないシステムでは自覚的な刷新が必要で、それがなければ、つぎはぎシステムのデメリットが次第に大きくなる。
日本には、この自覚的刷新をシステム化した例もある。「式年遷宮」だ。これは伊勢神宮を60年ごとに作り直し、技術の継承を図るというものだ。前回の宮大工の助けを借りて、若い宮大工が新しいお宮を建立することでこれをやる。システムレベルでいえば、時代や状況に合わせてシステムを定期的に作り直し、それにより「作り直す技術」の継承を図る方法体系といえるだろう。
この方法を社会システムに適用したらいいんじゃないの。というのが今回のご提案です。
現代日本の社会システム老朽化問題は、「科学の方法」によるアップデートを前提にした社会システムを(法体系を)、式年遷宮がなければマトモなアップデートなんかしない、「日本の方法」しか知らない人たちに委ねたことから来ている。保守層が感覚的に「日本文化に合ったやり方を!」って叫ぶのは、科学を元にした方法自体を自分のものにできていない人たちが、式年遷宮方式でスッキリしたい!と言ってるだけだ。*1
オレは「日本人よ、科学に屈せ!! 」と思っている人間だけど、社会システムがちゃんと更新されるなら文句はない。この規模で*2法体系の(=社会システムの)式年遷宮を可能にする方法が開発できるなら、ただの懐古趣味よりはるかに有用な、それこそ「日本文化に即した社会のアップデート方法」となるはずだ。
これはこれで、物凄いコストがかかるだろう。特に今回は、法体系を作った明治時代の人たちは死に絶えてるので、すべてをゼロベースで作り直す必要がある。
しかし社会システムのアップデートは、もうどうしても必要だ。この方法でアップデートするか、科学の方法に移行するか、である。
そろそろ選んでほしい。じゃないとみんな死んじゃうよ。