非科学政治の限界

各国のコロナ対策、特にイギリスやドイツから出てくるメッセージを読んでいると、政治の形と、それを担う政治家のバックグランドに意識がゆく。日本の政治家が見劣りする、というだけの話ではない。過去の日本の政治家とは何が違ったかと考える。

宮澤さんあたりまでの自民党と今の執行部メンバーの一番大きな違いは、「これを絶対に大事にする」という、本人の心に刻み込まれた価値観の有無だろう。

刻み込まれた価値観とは、行動を掣肘する定規のようなものだ。戦場をくぐった中曽根康弘、同じく予備学生だった安倍晋太郎、戦前の大蔵官僚だった大平正芳宮澤喜一、極貧から土木を軸に身を起こした田中角栄。彼らには自分の価値観が刻み込まれていた。

確たる価値観を持つ相手には、哲学のぶつかり合いという形での異議申し立てや、すり合わせの意味での議論が成り立つ。

ところが、もともと大事にしてるものがない相手には議論ができない。依って立つところがなければ、どこまでも撤退できる。こうも言えます、ああも言えますと無限に逃げ回り続けるだけで相手は疲労していく。これが昨今の国会の実態だろう。

「地盤がMOTTAINAI」だけで人生が決まってた二世議員たちには、自分の価値観を涵養する機会は無い。時代が強制する嵐のような経験も、深く傾倒した学問も持てない。そもそも強烈な体験からは切り離されて育つのだ。彼らはいつもキョロキョロして「立派さ」を取り繕おうとする。しかし自分の中に大事なものがないので、前人の踏襲という形でしか行動できない。野卑な言動や強権でごまかそうとするのも同じだ。自分というものがないから、それを持ってた人たちが突発的にやらかした目立った行動を、外形的になぞるしかないのだ。

普段はそれでも成り立つかもしれない。それは立場の維持にはとても役に立つからだ。しかし、未知の場面において前人は参考にならない。ふだんなら決めてくれる官僚も決めてくれない。「これがボクの価値観なんじゃないかな」と一部の者が採用してた「伝統」なるものには実体がない。そのことに気がつけるほどは伝統というものを深く見てもこなかった。立ち尽くすことしかできないのは必然だ。

彼らは他国の首脳が持つ科学というツールも持っていない。

専門家を軽視し、集合的に扱っておいて「総合的に判断する」。それは専門性を持たない彼らがアイデンティティを保つ手段である。科学は専門家社会で重んじられる体系であり価値観だ。軽視している相手の哲学を自分の内側に取り入れられる人は、なかなかいないだろう。

周囲で知恵を授けてくれる官僚も同じだ。これは政治家と同様のジェネラリスト重視な職業的バイアスもあるが、よく言われるように、マジョリティが法学部出身者で占められていることも大きいように思う。

法学部的価値観は自然科学と同様に論理を用いる。ただし、その相手は自然ではなく人間であり、それが作用するのは形而上的な人格に対してである。

法体系は論理の集合であり、そのすぐ外側のメタな部分を切り離して考える。こうした切り離しは、その体系を共有する人間同士を律するには非常に優れているが、論理が実態を反映することを保証不能にする。

そんな雑な方法論が21世紀に通用するはずがない。現代とは未知の物事の次々に起きる世界であり、それは自然そのものであるからだ。

自然に対して法は適用できない。

日本の統治のもっとも時代遅れな点はここにあるだろう。

科学は自然を相手にする。論理は理解のためにある。組み立てた論理がうまく適用できない場合、間違ってるのは自然ではなく論理の方である。集合的な、あるいは動物としての人間は自然物であり、科学が適用できる。

科学の本質は公開だ。それはデータを共有し、思考をぶつけ合い、多数の専門家が検証することで進む。間違った方向に進んだ場合は、公開物を後から再検証することで、どこでどのように間違ったかわかる様になっている。それはデータの品質のような細部についても規定する。定性的より定量的、単発的より経時的、単なる数字よりは割合を反映したものを、といった基準が培われる。

つまり科学とは、確実に前進するための方法そのものだ。

自然の理解にどうしても必要だったこの方法が、為政にも利用可能であることは、おそらく特に意識されていたわけではない。「知の自由競争」という価値観が、民主主義と科学という2つの場所に根付き、双方から歩み寄って現代に結実しただけだ。

定量化して全体の景色を見えるようにする。問題を特定する。人に依らずに解決を進める。こうしたプロセスの細部を理解できる為政者だけが、21世紀にも不幸の少ない国を作れる。

日本の為政者がせめて、アジア文化の強さを発揮してくれればよいと思う。すなわち「横並び意識と模倣」だ。

もちろん結果だけ模倣すれば済むという話ではない。科学者出身の政治家に交代すべきだ。しかしそんなことをしている暇は今はない。結果すら模倣しなければ、非常に多くの人が不幸になることは、いまわかっていることから明らかだ。

われわれには選択肢がない。

今後の選挙では、この無力感を常に思い起こそうと思う。