日本の国民性は知識の体系を拒絶する

レッドブルエアレースが開催されているようで、東京湾岸をゼロ戦が飛んでた!という話があちこちから聞こえる。あれはP&W WASPを積んでてオリジナルの栄エンジンではないという会話もある。実のところ、栄はWASPから発達したエンジンであり、日本人は自分で作ってみながら足したり引いたりしただけである。


日本のオリジナル技術です! とかいうものは、はるか後の時代になっても、「海外の研究が得た原理を使い、自分らで製造できるようになり、自分らで発達させた部分が大きくなったからオリジナルと言い張ったもの」がすごく多い。海外の技術だってそうではないかと言えば言えるのだけど、原理から現在の技術までのつながりがどれだけ可視化(公開)されており、学ぶことができるようになっているかという点で大差がある。日本にオリジナルの研究がないわけではまったくないが、オリジナリティは単発的に生じるのみで、体系化ということを知らないのだ。


小松真一『虜人日記(http://amzn.to/2qNTXET)』に「日本人が米人に比べ優れている点」という文章がある。(2004. ちくま学芸文庫 pp. 336-338)

長いストッケード生活を通じ、日本人の欠点ばかり目につきだした。総力戦で負けても米人より何か優れている点はないかと考えてみた。面、体格、皆だめだ。ただ、計算能力、暗算能力、手先の器用さは優れていて彼らの遠く及ばないところだ。他には勘が良いこともあるが、これだけで戦争に勝つのは無理だろう。日本の技術が優れていると言われていたが、これを検討してみると、製品の歩留まりを上げるとか、物を精製する技術に優れたものもあったようだが、米国では資源が豊富なので製品の歩留まりなど悪くても大勢に影響なく、為に米国技術者はその面に精力を使わず、新しい研究に力を入れていた。ただ技術の一断面を見ると日本が優れていると思うことがあるが、総体的に見れば彼らの方が優れている。日本人は、ただ一部分の優秀に酔って日本の技術は世界一だと思い上がっていただけなのだ。小利口者は大局を見誤るの例そのままだ。


このへんを読んでいると、ジャパン・アズ・ナンバーワンでうかれてた80年代もけっきょく一緒だったよなあ、と思う。日本の半導体企業はDRAMの歩留まりを上げる技術一本槍でアメリカ企業をほとんど全滅させたけど、強固な技術体系の根が残って新しいものが生え、けっきょくこちらが全滅することになった。


日本にオリジナルなものがないということはまったくない。本質的なオリジナリティがなければどうにもならない数学分野に世界レベルの凄い人が伝統的にたくさんいるくらいである。ただ、点で生まれるオリジナルな発想を体系化して線にし、誰でも使えるようにしてから面で発展させる。ということが本当にできない。江戸時代などを見ても、和算関孝和などに真のオリジナルな発想があって、これは西洋の数学に比べてもXX年進んでいた、みたいなことを言われることがあるけど、単発で終わって、現代数学に関の痕跡など残されていない。


基本的に日本の社会には、庶民から為政者まで、「その場の正解」にのみ拘泥して知識体系を軽蔑するところがある。専門家を軽視し、髪型だの所作の奇矯さだののくだらない揚げ足取りに終始し、その専門性に正面から向かい合うことができない。向かい合わないから尊重すらできない。尊重し、言うことに耳を傾け、制度を動かすといったことができなければ、本人が去ることですべては崩れ去る。システムで戦うことはできず、世代が替われば一からやり直しになる。これが日本社会の属人性といわれるものの正体である。


人間を自由にしていけば必然的にたどり着く個人主義というものを前提に、制度を家のように作り上げ、その中に住む。自由な発想で全力を出せば、それが全体の力になる。これがルネッサンス以来の世界の文明の方向性であり、人類は実際にそのように発達してきた。基本的に、システムが個人をサポートすることばかり考えてるといっていい。それ以外の方法は、なにより個人個人の支持が得られないことにより、廃滅しつつあるのだ。


実のところ、自由競争を長いことやっておれば、人間はこの「知の自由競争」の発想にたどりつかざるをえない。中国のような国ですら、草の根から「科学化」しつつあるのはこのためである。日本がそうならなかったのは、上記のような国民性を別にして経済的な力関係という直接的な原因から見れば、おそらく規制産業が圧倒的に強力なままだったからである。中国は発展のために役人支配を緩めたが、日本は緩めなかったというか、現在に至るまで単調増加でそれを強めつつある。その罪深さを感じざるをえない。


自分たちの文化から、科学のような「体系を生み出す体系」を発明できていれば、あるいはこんなにこじらすことはなかったかもしれない。しかしながら、この体系、すなわち科学という方法論は、けっきょく世界中で西欧文明の切磋琢磨でしか生まれなかったものである。そしてまた同時に科学というプロセスは、すなわち、記録し、自由に討論し、人間ではなく知識を磨き上げていくという発想は、誰が考えても同じような形に落ち着くように思う。コロンブスの卵みたいなもので、考え付けなかったからといって恥じることはない。取り入れさえすればいいのだ。


こうした体系を学ぶことを拒否し、個人の技芸に頼り、「自然な発想で統治」とかしてる我々は、方法論的に原始人となんら変わるところがない。長い不況の出口は科学化の方向にあったが、それがどうしても見えず、というか本気では探さずに、いまや昔の局所最適に戻すことで生きのびようとしている。


この国にはこの先にも希望がないのだ。