Twitterをやめました。

ここ10年ほど、Twitterにばかり書いていました。

Twitterが、とても書きやすいプラットフォームだからです。

  • 1投稿140字の制限があること
  • ユーザー同士の繋がりがゆるいこと
  • 見たくないものを見ない機能(ミュート等)が充実していること

 

140字までしか書けないということは、思ったことを少しずつまとめることができるということです。一般的なエッセイでも、1本の文章に多くのトピックを盛り込むと、論点がぼやけて何が言いたいのかわからなくなるものです。

140字という絶妙な制限は完結を促します。たとえ連続した「つぶやき」によって少し長いものを書くにしても、意味を短く区切ることを意識せざるを得ず、短くまとめることができます。これがとても気軽。

 

ユーザー同士の繋がりの弱さも、書くハードルを下げてくれます。これは繋がりが「フォロー」という一方通行のものであること、付けられたコメントが他の人から見にくいインターフェイスによります。

繋がりの強い通常のSNSでは、繋がりのある相手が自分の書いたものを読むのは当然のことですから、繋がりのある誰かが嫌うことは書けません。また、どんなコメントでも等価に表示されるので、書いたものが話題になれば、外からのコメントで「場が荒れ」ます。書きたいことを書くのに適していません。

Facebookは知ってる人に嘘をつく場所、Twitterは知らない人に本当のことを言う場所」という言葉がありますが、この「本当のこと」とは、「書きたいこと」だと思います。Twitterは書きたいことを書き、それが伝わる人には伝わる場所なのです。

世の中にはいろいろな人がいるので、なにか書けば反発される可能性はTwitterにもあります。しかしTwitterの場合、コメントに付き合わないことが可能です。

Twitterにおけるユーザー同士の関係の基本は、「なにか叫んでる人とそのオーディエンス」です。もともとの人間関係を想定しておらず、常時読む相手を「フォローする」、という一方向の繋がりです。フォローされた側が一人ひとりのフォロワーの事情に気を使う責任はないし、そうしたことに気を使いすぎると「その他の全世界」へのメッセージの強さを損なうので、むしろ斟酌しないべきなのです。

 

見たくないものを見ない機能の充実も、言いたいことを言いやすくします。度を超えた相手と付き合わない自由が保証されていれば、自分に嘘をついてまでその場を収める、といったことの必要がなくなります。これも「繋がりのゆるさ」の一形態です。

人生の時間の有限さに比べると、人間の人数は無限に近いので、付き合いたくない人と付き合わないための機能は重要です。人間の感覚は、いまだに「旧石器時代の150人以下で構成されるムラ」の中にあり、われわれは対人関係を(現代社会の規模からすれば)過度に気にしてしまうからです。

 

Twitterというプラットホームの設計は、全体として、言論の自由を促進し、言いたいことを言わせることに特化しているように思います。

 

--------

 

ながながと書きましたが、かように気に入っているTwitterをなぜやめるのか。

昨今の運営を見るに、Twitter社はこうした機能を理解しておらず、運用が無責任で、自分の言葉を預けておけない、と判断したからです。

  • 恣意的な凍結
  • 過去の発言の消去
  • その影響を外部サイトにまで及ぼすこと

この3つです。

 

「恣意的な凍結」の「恣意的」とは、凍結と解除のプロセスが非民主的であること、ユーザー間に適用基準の差異が見られること(明らかなヘイトスピーカーが凍結されないなど)を指します。

このように書くと「民間企業だから恣意的である/民主的でないことは当然だ」という認識を語る方もいますが、民間で民主的に運用することが「不可能」などではないこと、企業のプラットホームが民主的でないことは「必然」ではなく、「それを選んだから」であることに注意すべきです。

オレは別に、Twitter社に、自治体の意思決定と同じプロセスを踏め、などと言ってるわけではありません。自由な言論には摩擦が付きまとうものなので、言論のプラットホームであれば、ユーザー間の調停に民主的なプロセスを、少なくとも民主的に見えるプロセスを実装しようとすることが自然である、と言っているだけです。彼らがそれを選ばなかったことの意味を改めて考えています。

 

凍結ユーザーの過去発言の全消去は、本当に異常です。「問題のある言葉」と「その人の全存在」はまったく違ったもので、すべてを消し去ることに妥当性はまったくありません。

また、twilog等の他サイトに転載された発言までがTwitter社の恣意的な決定によって同時に不可視化される規約はさらに異常で、これでは自分の書いたものの存在状態を、まったくコントロールできない、ということになります。

これらはいわば、「言葉の所有権」の問題です。あるプラットホームで発言したからといって、その言葉を譲り渡したことになるはずはないし、そんなことがあってはなりません。自分の書いた言葉は自分で管理できるのが当然です。しかし現行の実装では、自分の言葉がプラットホーム企業に実質的に所有されることになります。

 

--------

 

気軽さ、使いやすさ、替わりがないことに流されて、疑問を押し殺すようにTwitterを使い続けてきましたが、ふと気がついてみると、自分が立っている場所があまりに不安定になっていることに気が付きました。

「ここに居てはいけない!」という内なる声に、改めてあたりを眺めてみれば、ここはどこだ!?と叫びたくなるくらいおかしな場所。

かつてはアカウントがいくらでも作れたので、凍結されれば最悪でも戻ってくることができました。いまは違います。

かつては外部サイトに転載されたつぶやきをTwitter社がコントロールすることはなく、だから「Twitter社が多少アホでもオレのTwitterでの発言とは無関係」ということができました。いまは違います。

環境が少しずつ変わって、われわれはすっかり「ゆでガエル」になってしまいました。

こんな不自由なプラットホームをいま初めて見たとすれば、使い始めることはないでしょう。自分のログを人質に取られる、という認識だけでも十分です。これはつまり、若い世代の自分同様の価値観のユーザーの流入は期待できない、ということでもある。そんな「ソーシャルネットワーク」に価値があるのでしょうか。

 

代替は見つかっていません。Twitterの「書きやすさ」に唯一性があることは確かで、経営陣と運営方針が変われば使いたい気持ちは強いです。日々あふれてくる言葉の置き場にも、さぞかし困ることと思います。

それでもオレはこれ以上、「非民主的なクソ野郎」に日々自分の言葉を投資し、彼らの価値をわずかずつでも高めることに加担したくありません。倫理的にも耐え難いし、サンクコストに拘泥して判断を鈍らせるようでは、こちらが投資家失格です。

 

そんなわけで、さようならTwitter

 

よりよいプラットフォームが生まれるには需要が必要です。Twitterロスの渇望感をオレは提供します。なにか新しいものを見つけたら、どんどん試してみようと思います。