計測できるものは計測せよ。できないものはできるようにせよ。

代議制の陥穽としての組織票、あるいは無関心層の存在は大きな問題だ。民主制とは参加であり、その成員の総意による意思決定がなされなければならない。現状の制度がどうであれ、長期的には正確に民意を反映するように不断の改善を続ける必要がある。

そもそもサイエンティフィックに考えれば、投票が操作されて民意を測定できないという状態は単に計測の失敗であり、データが余計なバイアスを受けているということであり、つまり大失敗だ。

現代日本ほど計測が簡単にできるはずの環境で、そもそも「投票率」なんて言葉が当たり前に流通してるのが悪い。交通の不便な昔の環境でどうしても投票できない人たちがいたのは仕方のないことで、その状況を可視化し、改善していく指標として使うならともかく、低ければどこが有利のように、計測の失敗が結果に影響することを放置して当然と考えている状態は非常に不健康だ。

そういえば、アシモフはこの件についても非常に先進的な小説を書いてて、『投票資格 Franchise 』って作品がある。(『地球は空き地でいっぱい』所収)

この短編の舞台である未来のアメリカでは、大統領選の投票者(選挙人)が、ただ一名の人物となっている。

しかも、その選挙人は直接候補者名を投票するのではない。彼がマルチヴァク(アシモフ世界に出てくる超コンピュータ)と、一連の、政治とは関係がないものを含む多数の問答をし、その結果や問答時の彼のバイオメトリーの変化をマルチヴァクが計測して、その全体を勘案することにより選挙結果が算出されるのだ。

小説は、その選挙人に選ばれてしまった平凡なデパート店員の悩みや葛藤、生活の変化なんかを描いてるんだけど、これ、アイディアとしては「統計的標本抽出の究極の形は1サンプルで十分かもしれない」じゃないかと思う。

そしてこの小説の問題意識そのものも、民意の計測としての選挙をどのようにすれば正確に行えるか、ではないだろうか。化学者として長らくボストン大の准教授の地位を保持していたアシモフが、民主制のこの部分の脆弱性について考えて、極端に言えばこういうのも可能だよね、と考えたがゆえの作品であるように思う。

無作為抽出の問題は、その無作為性が常に疑いの的になることだ。正確に無作為抽出された1%の住民による選挙は、おそらく正確に民意を反映する。しかしその無作為抽出の過程に人間が関わる限り、それが本当に無作為で、惜敗で落選した候補者が本当に自分は支持されていなかったかを疑うことを止めるのは不可能だ。アシモフの作品ではここにマルチヴァクという、人知を遥かに超えた超コンピュータを介在させることで、だれもがその結果に納得する(ただし選挙人はボコボコに言われる)社会を成立させているわけだ。

いまの選挙制度を民意の測定方法として考えてみよう。それはあなたの社会を正確に反映するものになっているだろうか。改良の余地はどこにあるだろうか。

たとえば、投票が強制ではなぜダメなのだろうか。

考えてみてくださいね。

Measure what is measureable, and make measurable what is not so.
Galileo Galilei