「帰りの会の世界」を生きそして死ぬ

「資本主義批判」みたいなやつをオレはまったく信用してなくて、というか、素人の浅墓なたわごとだと思っている。


投資の果実を投資者が直接得なくてもよいのであれば、もっともリターンがでかいのは教育投資。政府がシステム的に子供にカネをつっこめば本人の人生の充実という形で得られるリターンは非常に大きく、そのおこぼれの税収アップだけで政府はやっていける。みたいな考え方を市場経済が嫌いな人はやりにくいのでもったいなく思う。


科学とカネ勘定は人生の両輪である。


カネ勘定の問題がわかるというのは生物としての人間がわかるということにほとんど等しく、資本主義が生き残るという現状は、ヒトという種の作り出す社会の「計算結果」であり、どうしようもなくビビッドに現れている単なる表徴である。批判しようがどうしようが、それはそこにある。

 

もちろん、生物としての必然を客観視してそこに人為的な調整を加えうる、というのは人類の強烈な強みであり、市場を調整することで全体最適を制度化することが sapiens たる人類には(理論的には)可能である。

 

ただ現状のように、カネが流れてくるようになった場所に偶然立っていた人間がカネを握り、カネという結果を得ることで自分の実力を過信し、カネにより権力にも影響を及ぼすことができる社会で、カネを取り上げる施策が可能であるとはとても思えない。

 

たとえば自民党は二代目アホアホ経営者のお仲間集団であり、それらしいことをなあなあに言い含めるのが好きで上手だし、庶民はそういうのにとても弱い。全体最適は制度化しない。

 

小学校が解体される時代にならないと、こうした帰結がもたらすせせこましい社会が変わることはないのだろうと思っている。

 

国民性は小学校で作られ、われわれは今も「帰りの会」の世界に生きている。たとえ理性と議論がまともな結論を出したとしても、「先生」の鶴の一声がすべてを覆すことにわれわれは耐えてしまう。自分たちで不安な未来を選び取るだけの胆力がない。そうした国民性が変わるには、小学校が消滅し、個々に選び取る教育が普及するのが最上だと思う。

 

それまで待っていられないのであれば、小学校に関わる大人を増やすことで学級運営の呪いを解き、小学校を民主化する、という方法も存在する。(「学級運営の呪い」とは、学級崩壊により授業が成立しなくなることの不利益が他のすべての不利益より大きいという教諭間のコンセンサスにより保たれている非人間的学級運営慣行のすべてである)。

 

関わる大人は高度化しなければならない。教育学部出身者の教育法以外の知識はほぼすべてが一般人レベルで、学校には、そして教育委員会には、もっと現代的な知性が必要だ。数学嫌いだった教師に算数を教えさせるから、掛け算順序のような不毛な問題が起きる。

 

小学校はもっとも数の多い学校であり、多数の人間を配すには多量のカネが要る。

 

しかし、この投資を無駄だと思うのはカネ勘定のできない人で、教育投資のリターンがどれほど優れているのか身を以て体感しているはずの国家公務員たちが、あるいは収支を合わせるのに汲々とし、あるいは下手の横好きの一般的投資に走って、いずれも結果を出せていないのは、要するに彼らにはカネ勘定ができていないためだ。

 

科学とカネ勘定は人生の両輪である。それは政府の運営にもっとも必要な資質でもある。

 

しかし、「科学」を手に入れるには学問への傾倒が、「カネ勘定」を手に入れるには市場での経験が(できれば身銭を切ってひどい目にあった経験が)必要だ。どちらもハードルが高く、どちらも持ってる人はだいたい黙って満足に暮らしている。

 

政府の運営に関わる人達に科学とカネ勘定を無理やり注入するのがいいのか、制度を改めて在野のこうした人たちを活用するのが良いかといえば、目的達成が容易なのは圧倒的に後者だ。

 

しかし日本では制度が抜本的に改まることはないし、「無理やり注入する」方の策がとられたとしても、注入できた「ことにする」員数主義のショートカットが横行し、けっきょく何も変わらずに終わるだろう。小学校が解体される時代まではこれが続く。

 

さて。小学校が解体されるまで100年、その教育で育った子が社会の中枢に至るまで50年として、150年後くらいには、もしかしたら日本も少しは変わるかもしれない。

 

しかし、あなたが生きている間に変わることはない。「帰りの会の世界」を生き、そこで死ぬしかない。

 

大多数が政治に無関心な社会とは、こういうものである。