いつのまにか沈められていることに気付く

市民の教育参加は、

  • 学校にできない方向性のことやり
  • それがある種の子どものためになり
  • 収益性がある

という三位一体が理想で、というか、そうでないと持続性がない。こういうことを教師は本当に理解してないな〜、やっぱ公務員アカンな〜、と思ってしまう事例があった。今日。

去年小学校でのバザーの出し物にハンダ付けワークショップをお願いされて出した。今年もお願いという連絡が来てたのでそのつもりでいたんだけど、今日の委員会の話し合いで「危ないんじゃないか」という思いつきのような懸念が示されたそうで、それにわざわざ対応して校長先生が電話してきた。他にできるものはありませんかね、3Dプリンタの展示とかどうでしょう、などとのご提案。

ハンダ付けのワークショップ、そもそも危ないものではない。一回の人数は少ないし、対策を重ねて体験者の年齢下限は幼稚園児(親付きだが)である。低年齢をいたずらに誇るわけではないけど、まあ基本的には安全確保できてるし、キット購入の形を取ってるので(あんまりしたくないが)フィルタリングもされてる。今回の懸念は周囲でゲームなどをやるからというのもあるんだけど、柵で十分。ちゃんと内容を理解してない感じがする。

そして重要なのが子供にとってのメリットで、「一見危ないようで危なくはない、実際に使われている生産技術に触れ、自分の自由度が上がる」というのがキャッチフレーズ。「3Dプリンタを見るだけ」では、そうしたものは何も得られない。珍獣見物だ。珍獣見物が役に立たないというわけではないが、たとえばレギュラーの放課後子ども教室でやってるのは3Dプリンタの仕組みの理解と3Dモデリングの基礎で、技術の道筋が見えるようにしてる。ぜんぜん違う。

で。さいきん完全に持ち出しに慣れてしまっており、電話で話した時に情報提示できなかったんだけど、このワークショップは本来は有料である。準備段階もあるので1回数万円取るのが普通だ。

昨年参加したのは、昨年まで熱心な保護者の方が同時にPTA事務を担当しており、この方が「科学の祭典」改め「科学の自由研究まつり」という沖縄中部の具志川で開催された科学イベント(これは謝金が出る)までわざわざ来て、オレのワークショップに子供2人を参加させ、収益性の懸念も表明した上で「できればぜひ…!」と頼んできためだ。

こういうのは歓迎だ。なので、キットを買ってもらってそれを組み立てるワークショップを開催する、というMitch AltmanがMake: Tokyo Meetingでやってた方法を取ることにした。これで現実的な収益が上がるわけではないけど、そういう相談をしてきたことで最低限の敬意が払われてると思ったので気持ちよくやった。

一事が万事だと思う。「大人に頼むならちゃんとカネを払え、払えないならなんらかの形で補填して敬意くらいは表明しろ」というのはやっぱり大事なこと。子供は常に可能な範囲の最高の教育を受ける権利があると思っているが、大人が教育に何かを足したいならちゃんと対価を払う努力をするべきだ。

この文脈で考えた場合、3Dプリンタ見物させてオレになんのメリットがあるんだろうか。隣でゲームをやってて危ないというけど、それで機械が壊された場合に誰がどうしてくれるというのか。移動すると調整も狂うのだ。

こういうの、月給取りの人には響きにくいとよく感じてたけど、フリーと公務員となると正反対くらいの感覚かも。だから何も考えずに思いつきで頼んでくるのは、まあしょうがないっちゃしょうがないんだけど、無理だよね。いろいろと。

今回のあまりにもあんまりなご提案にハッと目を覚まされたけど、こんなことしてたら擦り切れるばっかりだ。流されてると周囲の意識がオレを「メンドクセエけど鋭い外部観察者」から「無料で使える便利なおじさん」に変えていき、オレも最初から当たり障りのない無難でつまらないものをやるようになっていくのだろう。おそろしいおそろしい

学校にもできる、大して子どものためにならないことを、擦り切れながらやる。そういう人に私はなりたくない。でも、そういうのが「無難」なのだ。

放課後子ども教室も含め、そろそろ去りどきなのかもしれない。やっと出てきた数学小学生も今年で卒業だし。

知り合いだらけの世界は快適なものだ。でも自分のことを知らない人だらけのところに行き、無茶と言われることを通そうと努力すること。これを常に頑張らないと、たぶん自分の問題意識なんて忘れてしまうんだと思う。

昔のワークショップ写真より