沖縄人じゃないが沖縄の精神的独立の重要性についてちょっと言いたい

台風のあいだ、沖縄戦の陸軍内部のことをくわしく書いた本を読んでました。


大きなビジョンに則って、日々の行動を変えていくのが日本の大組織は本当に苦手です。そのうえ目先のことで浮足立ち、雰囲気と思い付きで長期の計画を忘れてしまい、局所最適を求めてすべてを台無しにするのは、ほとんど特徴と言ってもいいくらいです。


なにかをやらなきゃいけないけれど、やるべきことはいま決める。


沖縄戦帝国陸軍でいえば、防戦準備の整った師団を台湾に引き抜いたり、無意味に攻勢に出て戦力を失ったくだりなどに、いまとまったく変わらない組織思考の発露がみてとれます。


ところがこうした右往左往は、現代の沖縄にもあらわれているようにも感じます。


沖縄のある種の若者の間で、いわゆるネット右翼の流すフェイクニュースの類が、友人から友人へと伝わってるうちに「みんなが言ってるから事実」となっていることを伝えた記事を読みました。


人間のネットワークには、たしかにそうした「情報ロンダリング」の一面があります。こんなところを突いてくるのは卑劣としか言いようがないけれど、それでもそこのところを突かれてしまうのは、いったいどういうことなのよ。といったところです。


それは「大きなストーリー」の喪失ではないか。
それがいま自分の疑っているところです。


今度の選挙戦での沖縄側の対応ではがゆく思ったのは、そもそも長期のビジョンが示されなかったこと。翁長さんが示したものを受け継ぎます、だけでは不十分すぎるのです。そのために、選挙戦は非常な苦戦を強いられているように感じます。


日本人の作るチームは短期決戦にはとても向いてます。


個々の独立性が高く、連携もツーカーで、場の雰囲気に密着した対策を機敏に取れる。人の顔がギリギリ見えるくらいの範囲でものを考えるときが最強で、選挙戦程度の期間で地域を「攻略」するための作戦立案や、その実行の能力については、高いと認めざるをえない。さらに、似たような作戦を繰り返した時の最適化による効率の高さには眼を見張るものがあります。


それでは選挙戦において、地方は中央に抗しえないのか、といえば、そうでもありません。日本的な組織は、高いレベルの哲学性を持ちえないからです。場の雰囲気に密着して展望を変え、絶対的な価値観を持たず臨機応変をうたい、すべてを相対化した精神の上に成り立っていることは、そのまま弱みになるのです。


絶対を持たず、いつでも価値観の反転が起きうることを想定しながら生きる。周囲とぴったり折り合いのつく「正解」を模索しながら生きる。


こうした日本的「人格者」は脆弱なものです。独自の物語を持つ、独立した精神には勝てない存在です。


太平洋戦争に先立つ数年間、中国の外交に負け続け、日本が孤立した存在になっていったのも、大東亜共栄圏といった独りよがりのストーリーにまったく普遍性がなく、民族自決を根本にした中国のストーリーに高い普遍性があったからです。


半導体。家電。金融。細かく言えば携帯電話にスマホにロボットにオートバイ。外交や軍事に限らず、局所的には圧倒的に強かったのにストーリーの普遍性で負けた例は枚挙にいとまがありません。現状に最適化し、体系をないがしろにするために、ルールが変わるたびにキャッチアップしなおして、どこかで失敗すれば敗退する。そんな行動様式を、どれほど負け続けても変えられないのがわれわれ日本人の文化の特徴です。


沖縄の側には、県民が共有する大きな物語が必要ですし、それを持つことができる位置にあります。どこまで実現できるかわからないにしても、大筋ではこうなるべきだ、という理想のビジョン。むしろそういうものがだんだん希薄になっているからこそ、目先の振興やら恫喝に浮足立ったり、惑わされたりしているように思います。


沖縄はこれを尊ぶ、この方向を堅持する、これだけは譲らない、そういった価値観の核はいろいろあります。「ぬちどぅたから」にしても、「世界のウチナーンチュ」にしても、あたりまえのことを言っているようで、実は高い独自性を持っています。本格的に実施すると日本的価値観からはだいぶ遠いところに行く。そしてこれらは、高い普遍性を持ったものでもあります。


こうした独自の哲学を堅持したまま世界と成功するイメージやビジョンを、沖縄はストーリーとして発信し、広く共有し、みんなで発達させていく必要があるように思います。これまで沖縄県民の盛り上がる場面には、それに通じる何かがありました。そのようなものを取り戻せなければ、沖縄も単なる日本の地方のひとつになっていくことでしょう。


沖縄サイズの独立国は世界中にあります。人口でいえば世界の国の150番目くらい。地政学的特殊性はたしかにありますが、それは実は特別なことではありません。独自の、世界に通用する普遍性をもったストーリーが共有されていれば、どこにも屈伏せずにやっていけるのは歴史が証明するところです。


それでもこれは、国家としての独立論ではありません。それはいまは問わない、というよりも、国家としての独立論などより、独自のビジョンと価値観と生存戦略、つまり精神的独立の支柱こそが先にくるのが本当だし、より重要ではないか? と思っているからです。四半世紀以上沖縄に住んだうえで、そこをないがしろにしては沖縄人は満足しないのではないか、と感じているということです。


大事なのは強いストーリー。経済は後から付いてきます。


それではあなたはどのように生きたいか。


そういうことではないでしょうか。