さいきん和訳に擬音語・擬態語を取り入れるよう意識してる。
擬音語・擬態語を使うと、1つの英文の塊であらわされるくらいの概念を1語で表現できる。ちょっと複雑な概念でも非常に楽に書けるし、日本語らしい簡潔な表現が作れる。
また一般的な擬音語・擬態語に加えて、日本語化されたカタカナ語も擬態語の一種と捉えることができる(この話はいずれ書く)。このへんも併せると表現が非常に楽になる。便利なスイスアーミーナイフを手に入れた感じ。
もちろん、簡潔になりすぎれば不適切なことも少なくない。英文でベタベタ書いてあった文が1語になるので、適用された文とされなかった文で長さが大きく変わる。英語と日本語では語順が違うので文同士の繋がりが難しくなることがあるんだけど、長さまで変わるとなると、文から受けとるものが大きく変わってしまうことがある。あと使いすぎるとバカに見える。
とはいうものの基本的に、擬音語・擬態語というのは日本語の表現にとって非常に便利なものである。
ところが和文英訳になると、これがそのまま地獄になるようだ。
擬音語・擬態語に特有の精緻な論理がある。ということは、日本語を英語で完全に表現するには、擬音語・擬態語が持つ論理・内容を訳者がいったん全部把握して言語化し、それを英文にする必要があるということになる。つまり、擬音語擬態語論理→日本語→英語という、二重の翻訳をする必要がある。
また、漫画のテンポを作るとなると、もとの日本語の長さから大きく逸脱せず、前後のつながりもきれいに収めないといけない。
これをくどくどしい英語でやるのは至難の業で、むしろ内容を認識した上で、英語頭になって書き下すほうが楽に適切な表現になるだろう。これには相当な英語力が必要だと思う。すごくたいへん。英語と日本語は斯様に離れている。
和訳の際には武器が増えるので直接の大変さはないのだけど、擬音語擬態語を取り入れるようにしてから、テンポの問題や語順問題が意識に上ることが増えた。
たぶん擬音語擬態語問題は、すべてを表面化させるんだよね。
いろいろ考えることが増えて、パンドラの箱を開けてしまった感もあり、理解が次の段階に進んでいる感もあり。おもしろすぎて人生が短い。