その不安はオレだけのものか?

新型コロナウィルスの話題がかしましい。内地では不安感にさいなまれる人が、またたくさん出ているらしく、「あまりテレビやSNSを見るな」といった注意喚起を見かけた。

そういう世相を反映して、不安は個人的なもので対処不能なんだから尊重しろ、という話が流れていたのだが、

まったく納得行かない。

たしかに不安は個人的なものだし、どうしようもない部分がある。 

わけのわからない不安感というか、恐怖感情はオレにもたくさんある。

  • 怪談の類が大嫌いで、ホラー映画も怖くて見ていられない。
  • 悪夢で目が覚めると、布団から出るどころか目を開けるのも怖い。怖すぎて二度寝もできない。
  • わけもわからず怖いときのための自分だけのおまじない、「体の中心から光が発散して魔を払うイメージ」を開発し、愛用してた。

たぶんどちらかと言うと、オレは恐怖を持ちやすい心を持って生まれてきたのだろう。それはしかたのないことである。(ちなみに、この中では悪夢が面白い。恐怖はありありと覚えているのだけど、消えゆくディティールを捕まえて記録してみると、どうしてそれが怖いのか、まったく理解できなかったりするのだ。目覚めた直後など、「いまここにある恐怖」を確かなものとして感じているのに、同時にそのストーリーのバカバカしさに呆れていたりする。)

不安は恐怖は存在する。それは理不尽に襲いかかってくる。繰り返すが、それはしかたがない。何をしても最後まで解消しないものはきっとある。

だけど、しかたがないと諦めるのは、できることをやって、この部分は対処できないという見極めが付いてからだ。不安を神聖視し、自分の中の不安という現象から目をそらすことが、自分のためになるとは思えない。歯の痛さがわかるのは自分だけだが、自分にしかわからない痛みだからといって、他人が介入できないことはないし、みんなで「お大事に」と言い合っているだけで解決することもない。歯医者に行けば、現代の歯科学でわかっている部分は解消できる。不安や恐怖に関しては歯科ほどわかりやすくないが、それでもわかっていることはたくさんある。

たとえば恐怖を生理学的に描写すれば、それは扁桃体の興奮だ。扁桃体が阻害されるウルバッハ・ビーテ病の患者は恐怖を感じないし、扁桃体の興奮は鎮静剤で抑えることができるのだ。

また、それは未知から生まれやすい。FUDという有名なマーケティング用語があるが、これはFear(恐怖), uncertainty(不確かさ), and doubt(疑念)の略だ。IBMのセールスマンが競合(アムダール)のコンピュータを怪しげなものと吹き込んで、「安全な」IBMマシンを買わせるように仕向けたことから来る。知識の欠如や疑念からは恐怖が生まれ、それは商取引を左右するほど強い。

地理的・心理的な距離感が影響することもわかっている。すなわち、ちょっと遠い人が一番不安になりやすい。

オレは震災の後に『災害ユートピア』という本で知ったのだが、大規模な災害が起きると、当事者はパニックを起こしたりせず、連帯感や社会意識が高まり、モラルの高いコミュニティが生まれやすい。逆に直接接触のない為政者や少し離れた街がパニックを起こす現象があるという。 

原発事故のときも、たしかにそうだった。不安に押しつぶされそうだったのは「少し遠い人たち」、つまり、距離的に遠い人と、関連知識のない人だった。現場の人や、放射線についての実質的な知識を持っている人は大した不安を持っておらず、ずーっと不安を抱えてた人たちと鋭いコントラストを成した。

それではどうやって「恐怖対象」との距離を縮めたらよいか。 

まずは、オレらがみんな、旧石器時代に出来上がった脳味噌で現代を生きていることを自覚しよう。 

縄文人にとって、遠くにあるけど存在がわかってるような不安要因は、「いまにも攻めてきそうな未知の敵」になる。それについての知識がなければ、「いつ不意打ちを食らわせてくるかわからない敵」になる。 

これは怖い。偵察に行って近くで見ておきたいところだが、行けば自分が死ぬかもしれない。 

しかも困ったことに、現代の「遠く」は、10キロ先の隣の集落とか、100キロ先で流行り始めた疫病とかではない。地球は狭くなり、どうかすると2万キロほど先の、地球の裏側の「敵」にすら対処する必要がある。 

ところが現代文明には、こうしたものへの「偵察」も簡単にしてくれるという側面がある。

人間は基本的に体験しか実感できない。体験しか理解できないと言ってもよい。だからこそ、言葉を持って以後の人類は、時代に可能な技術をいっぱいまで使い、疑似体験メディアを発達させてきた。口承、記録、詩歌、新聞、散文、統計、音声、映像、そしてVR。すべて疑似体験のメディアだ。 

つまり、疑似体験メディをを使って「偵察」することで、当事者となり不安を(ある程度は)解消することが期待できる。 

いま不安感が強いのは、不適切なメディアを使っているために、不確実性が解消されないからだろう。マスコミは素人であり、自分がわかっていないことを、わかっていないまま伝える。SNSも同様だ。情報を得てもなお不安であれば、さらなる情報を求めるが、同じメディアを同じ受け手が探索しても、同じような情報しか入手できない。それでも探索を続けることはできるので、不確実さを抱えたままで同じところをぐるぐる回ってしまう。

人類が開発したメディアの中で、特に優れているのは、統計、散文(小説)、VRである。統計は身近な数字に置き換えることで確実性のある体験をもたらす。散文は主人公への憑依という非常に強固な疑似体験を生むし、VRは疑似体験を視覚という脳に最も太い神経で流し込む。(この中で、統計だけが毛色が違う。数字には、たとえ情報の作成者が事実を曲げようとしていたとしても、その意図に左右されない部分が多分に含まれるのだ。ただし摂取者に一定の基礎知識を要求する。論文が読めると、こうした定量的な情報に簡単にアクセスできる。)

それでは現時点では、どのようなメディアを摂取すれば不安が解消に向かうだろうか。まずは当事者になることだ。自分に置き換えられる当事者、つまり普通の人にとっては、患者や家族の立場に憑依するメディアが必要なのではないか。

患者になりきるVRや小説があれば最高だが、信憑性に問題を感じるかもしれない。数字を解釈できればよいが、それには多めの想像力が必要だ。

いま流通していそうな情報で、不安感を解消しそうなのは、退院患者のインタビューあたりではなかろうか。

そんなわけでちょっと検索してみたが、医者の側の体験は読めるけど、患者の側のはとても少ない。唯一見つかったのがこちらだ。なかなか納得感がある。

www.huffingtonpost.jp

不安を神聖視して目を背ければ済むということはない。というか、目を背けても問題は消えないので、不安は醸され続けてしまう。

知りたいことを知りたいように知れる人間に不安はない。ところが、知りたいように知れる人間はまだ稀である。

問題はこれなのだ。文明をもっともっと進める必要がある。