田宮虎彦『沖縄の手記から』

前回の続き。

田宮虎彦『沖縄の手記から』の載った書籍、『新潮現代文学 (22) 田宮虎彦 足摺岬,沖縄の手記から 他』が届いた。

それで『沖縄の手記から』を読み始めて驚いた。この小説は、昭和19年の沖縄に読者を連れて行くVRマシンだ。

物語は、教科書に載っていた部分よりはるかに前、空母隼鷹乗組だった軍医大尉の主人公が、マリアナ沖の負けいくさからどうにか呉の泊地まで戻り、そのまま転属を命じられて、昭和19年の夏に那覇の南、小禄の航空隊に着任するところから始まる。

日本の運命は既に定まっていたこの時期でも、沖縄にはまだ米軍の影すら見えず、いまだ平和なこの土地で、数年以内に侵攻してくるであろう敵を迎え撃つ準備に忙殺されている…これが昭和19年夏の沖縄であった。

彼は沖縄が自分の死に場所になることを避けられぬ運命として知っている。しかし二十代の軍医で分隊長である彼は、ただひたすらに壕掘りに忙殺される兵や、司令部からあまり動かない司令官・参謀とは異なり、南風原陸軍病院に病兵を後送したり、夕暮れ時に壕を掘っていた台地に登ってみたりする。このため結構な分量で、当時の沖縄の風物を珍しく眺める描写がある。

そしてここがオレの驚きだったのだが、描写されている戦前の沖縄の風物や、那覇から小禄にかけての当時の風景が、自分が古地図や写真、民俗学調査などで知った当時の沖縄を非常に正確にあらわしており、どうかすると写真などよりビビッドに伝えてくるのだ。

那覇の入江は、那覇の港から四キロ近く深く入り込んでいる。その最も奥深いところで国場川と言う川が入江に流れ込み、そこには真玉橋という古くから沖縄名所とされている石橋がかかっている。その台地も、入江の対岸になる台地も濃い緑に覆い尽くされ、入江は濃い緑の山の底に眠っている湖のように美しかった。

私は、南風原陸軍病院に病兵を後送した時、初めてその入江と、入江をへだてて見た小禄の台地の美しさに気づいた。私たちの病舎から陸軍病院へ行く時は、一度、那覇の港ぞいに出て、港口にかかっている明治橋をわたり、入江の対岸を走る県道を行くのであったが、私は、その県道を走る自動車の窓から、入江と小禄の台地を見た。 沖縄の風景を彩る沖縄松がその小禄の台地にも林をつくっていた。

那覇小禄の間には、かつて巨大な浅い入り江が存在していた。現在の地理で言えば、バスターミナルあたりから奥武山公園あたりまではすべてが浅い内湾であり、上記はいまは埋め立てられてビルの建ち並ぶその海の海沿いを走っていた県道(現代の国道329号線)から、小禄の小高い丘が直接みえていたという描写である。

地元の人の暮らしの観察もある。

医務科の壕から見下ろすと、農家の聚落(しゅうらく)の一つが病舎の屋根のはずれの右手に見えた。そこはフクギの茂みと、珊瑚礁の砕石を無造作に積み上げた石垣とにかこまれ、石垣の影には赤い仏桑花の花が点々と咲いていた。聚落を包んで、凹地には砂糖黍畑が甘藷(かんしょ)畑や蔬菜(そさい)畑をまじえて広がり、そこでは農家の人たちが焼きつく日差しの中で働いていた。沖縄は隆起珊瑚礁の島である。土地は痩せていたから、農家の人たちの畑仕事ははげしい荒仕事であったに違いない。ことに甘藷畑の多くは台地の山肌を切り開いた山畑であった。強い日差しに焼かれながら、土というより珊瑚礁の岩肌そのままのような山畑に鍬(くわ)を打ち込んでいる女たちも、取り入れた甘藷をうずたかく山のように積み上げと重たい籠を頭に載せて山畑から運び帰って来る女たちも、はげしい仕事が骨身を削っていたに違いない。しかし、眼に見える風景はのどかな田園風景で、私には、そうした人たちが、自分たちの静かな生活をたのしんでいるように見えた。小禄の人たちにとっては、それは戦争がはじまるはるか前からつづいていた生活であったはずであった。

夕方になると、あたりはいっそう楽しげな風景になった。山かげにある野井戸に人々が水を汲みに集まって来る。そこは石をたたんだ水汲み場になっていた。日が赤く燃えながら西に落ちていき、木々の影が長く野面にのびて行くと、海を渡って来る風はさすがに涼しくなる。水汲み場に人々が集まって来るのはそんな時刻であった。若い娘たちの姿が眼立ったのは、水を運ぶことが若い娘たちの仕事になっていたからかもしれない。 沖縄では畑で働いている女たちはみな裸足であったが、水汲みに集まってくる若い娘たちも裸足であった。娘たちは体で巧みに調子をとっているのであろう、頭に乗せた水桶から滴ひとつこぼさずに白い道を帰って行った。

「野井戸」である「石をたたんだ水汲み場」は、沖縄で「カー(ガー)」と呼ばれる水場のことだ。宜野湾市我如古の我が家から数百メートル以内に限ってみても、「西原東ガー」「一貫ガー」「クシガー」「我如古ヒージャーガー」「イリヌカー」など、たくさんのカーが残されている。

「白い道」はサンゴ砂で簡易舗装された砂利道で、いまは竹富町などにしか残っていないが、当時の沖縄は島のほとんどがこうした白い砂利道であった。(日本全体も国道を含め全国ほとんどすべての道が未舗装で、長距離輸送は鉄道以外なかった。)

また、これらとは少し違った形で、当時の沖縄を伝える描写もある。

地上戦に比べると内地ではまったく知られていない、しかし沖縄での戦史の展示などには必ず登場する「10・10空襲」こと昭和19年10月10日の米軍の空襲は、現代人から見ると、那覇が焼かれたという悲しさはあるものの、内地のほとんどと同じような空襲話というか、地方の小規模なそれのようにしか見えない。

ところが、この空襲の沖縄人にとっての精神的な意味あいが、この小説の描写を読むとようやく理解できた気がするのだ。以下は空襲の終わった夜の話である。

その夜、火につつまれた那覇の町から焼け出された市民たちが、わずかな食料や日用品を背負い、幼い子供や杖にすがる老人の手を引いて、小禄の部落にたどり着き、また南へ去っていった。南の島尻の町や村に親戚や知人を頼って行く人たちであったが、その人たちは虚脱した力のない眼を通りすがりに私たちに投げた。沖縄を浮沈基地として敵の進行をはばもうとする軍の方針が宣言され、働き得るかぎりの男は軍の作業にかり出され、飛行場の整備作業がすすめられてきて、ようやくそれらの飛行場が出来上がったばかりであった。軍は沖縄上空には一機の敵機の侵入も許さないと豪語していたが、事実は、沖縄上空は敵機のなすがままに蹂躙され、那覇は一日のうちに廃墟となってしまったのである。 避難していく市民たちの私たちに投げかけている力のない眼は、むしろ激しい怒りに燃えている眼であったと言ってよかったであろう。

これより前の部分には、那覇の港に軍需物資が山ほど積んである描写などもあり、沖縄の要塞化が著しく進行して(とはいえ、作業のほとんどすべては手動に頼った壕掘りにすぎないのだが)頼もしいような感じすらあったのが、そうした武器弾薬も各飛行場の燃料その他も、かなりの部分がこの日に なすすべもなく燃やされており、まずはいちばん大事な首根っこを押さえられてしまっていたことがわかる。

いかにもいかにも日本軍である。

ところで、この「いかにもいかにも日本軍」という感じは、後の方の無計画な南部後退命令と、元の壕に戻る命令などからも伺われるのだが、主人公は当時の一般的な若い軍医士官にすぎず、そのことに非難がましいものを記していない。軍の命令は動かぬものであり、自分が興味を持てる思考のフレームの外側にあるのだ。

この小説の、こうした再現性の高さには驚きを感じざるを得ない。

  • 細かい事実が間違ってない。その上で、それはこう見えただろう、というのがそのように描写されている。
  • 当時の人の感じ方や考え方もリアル
  • 当時の人物の一人称の世界がきっちり閉じていて、下手な「後世の見方」や、当時の人が知り得ない数字などが注意深く排除してある
  • これらにより、読者はきわめてリアルな人物に憑依して、昭和19年夏の沖縄に連れて行かれる
  • そのまま20年9月の武装解除まで地獄に付き合わされる

細部の事実が行き届いているだけでなく、当時の二十代の青年の思考の形や、その人たちがたどった精神的な動きまで再現し、それを一人称で再現しきっているのだ。現代ではまったく顧みられない小説家だけど、田宮虎彦の物凄い力量を感じる。

これは「当時見たこと、思ったことをそのまま投げ出してある」ように感じられる小説であり、手記をそのまま小説に組み直したようにしか思えないような手触りがある。

しかし実際にはこれは田宮の創出した仮想世界であり、読者は彼の手の上で主人公の視点を追体験しているにすぎない。

なぜなら、当時の沖縄で感じたことをそのまま手記に残せたり、まして持ち帰れた人は皆無で、後から書いたものには必ず現代の価値観での見方や、言い訳じみた夾雑物が入るからだ。手記をそのまま組み直しても、こうした作品にはなりえないのである。

沖縄以外であれば、当時の人が当時書いたものがそのまま残されてる例はある。学徒兵たちの遺稿集『きけ わだつみのこえ』を読むといい。彼らがどういう人達だったか、何を見ていたか、どのような思考のフレームに囚われていたか、その上でどんな言葉を残そうとしたかがよくわかる。

しかし、読まれることを前提とした遺稿と、自分のために書き残す手記は別のものだ。そして自分のための手記ですら、物事を正確に記録するとは限らない。手記には筆者の見たそのままのものではなく、筆者が興味を持ってピックアップしたものが書かれるのだ。これを小説の描写に再構成するには、その時の心情の聞き取りと事実の調査を徹底的にやる必要があるが、思い出すたびに壊れていく記憶を、どうやって保存してこのような形に再現したのかわからない。

そして『沖縄の手記から』には、『きけ わだつみのこえ』 の、その先が書かれている。

筆致は平和な時期から一貫して変わらないまま、主人公は行動がだんだんおかしくなり、あらゆることに無感動になり、すべてをどうしようもないものとして眺めるようになる。読者はそれを体験させられる。読んでいてさえ、そうなることが当たり前のように思えてくる。ときどき感じられる違和感が、自分が空腹・脱水・虚脱的な状態にないことを知らせてくるのみである。

なんなんでしょうね、このリアリティ。これぞ私小説の究極という感じがする。

日本で発達した私小説という形式は、作者が自分の体験したことをそのまま書くもののことを言うので、作者≠主人公という時点で、定義的にはこれは私小説作品ではない。

しかし、私小説の目指したものは自己視点の徹底によるリアリティであり、他人の視点を本当にリアルに追体験することだ。

ヒトは体験したこと以外は本当には理解できない社会性動物である。ゆえに他人の視点に憑依する疑似体験のために作られた方法が古代から多様な形で存在する。近世に生まれたその大きな発明品が、散文による小説である…というのはオレの持論だが、それを突き詰めた作品がここにある。

どうやって書かれたのか本当に不思議な小説なんだけど、88年に亡くなった作者は、この作品について何も語ってないみたい。ネットで調べられる範囲には、その痕跡すら残っていなかった。

いろいろ惜しいなー、と思う。と同時に、これを抜粋して国語の教科書に載せた人がいるというのも凄いことだと思う。

目の焦点はぼやけ、記憶ばかりが鮮烈になるのが加齢であるが、ときにこのような作者を新しく発見できるということもある。

Amazonの単行本のページに価格がなかったので前回の新潮現代文学(22)を購入したのだが、「すべての出品を見る」をクリックしたところ、ちゃんと売ってる本屋があった。こちらならこの究極VR作品が送料込み1500円ほどで買える。オススメです。)