音声入力による知的格差の縮小

車で帰ってくる15分ほどの間に原稿用紙数枚分のテキストを入力する。これはこれまでの方法では全く不可能なことである。

世の中にはさまざまな格差があるが、そのひとつに大都市と地方での知的生産環境格差がある。都会では通勤時間が読書の時間になるのに対し、地方では通勤時には自分で車を運転するために知的インプットがない。ちょっとしたメールに答える程度の知的生産も不可能である。

知的集積そのものにもともと大きな格差が存在するのに、こんな「スキマ時間」の利用についても差があるのでは、地方で知的産業に従事することはそれだけで不利ではないか。

ところが音声入力において、この格差は逆転する。

読書という、いわば材料集めにすぎない作業しかできない都会に対し、運転しながらの音声入力は超高速の知的生産である。運転中や歩行中は、アイディアがうかびやすい。欧陽脩の三上(枕上、厠上、馬上)のうちの馬上であり、ここで浮かぶことを確実にキャプチャーしてアイディアメモをどんどん作ることができれば、通勤中にいつもより高効率で仕事をしているようなものだから、田舎の方が知的生産性が高くなる。現状、都会では電車の中で音声入力をするわけにはいかないからだ。

他の格差も縮小または逆転する。たとえば年齢的な知的生産性格差がある。

キーボードでの文章入力は目に強い負担がかかるのに対し、音声入力で文章を入力すれば、その間は目を休めることすらできるからだ。

なぜ目の負担が年齢的な知的生産性格差につながるかといえば、中年期以降は目の疲れが知的生産のボトルネックになるからだ。

現代の老化がもっとも早く来る部分は目である。中年期以降のすべての活動は老眼により制限されている。同年代の友人たちを観察すると、みんな生活の端々で目をいたわっており、なるべく使わないようにしている様子が見て取れる。若い人にはわかりにくいが、知的活動の身体的なボトルネックは、まず目に来るのである。

文章が生まれるところを注視し、気に入らない変換などがあれば即座に直し、全体の構成を考えながら文章を書いていく。これは目を酷使する作業なのである。

音声入力にはこの負担がない。まともな文章を入力しようとしていないからだ。入力が高速すぎ、エラーレートが高すぎ、また編集に手間がかかりすぎるために、入力中に文章の体裁を考えることを放棄してしまうからだ。放棄「できる」と言ってもよい。(文章を書きながら体裁を考えるということを放棄すると、内容にのみ集中することができる。個人的にはこれによる生産性向上も顕著に感じている。)

こうして目の負担が取り除かれてみると、中年期の知的生産性は非常に高い。自分が諦めていたことすら意識していなかったものが取り戻されて、いくらでも書けるようになるのである。

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格差の縮小という点で考えると、知的アウトプットだけでなくインプット、つまり読書の方でも音声出力がもっと普及してほしい。運転が必要な地方在住者と中年は、目を使わずに情報をインプットしたい、という点で問題を共有している。

自分が使っている電子書籍リーダーの中で、日本語読み上げ機能のついたものはひとつもない。英語読み上げが可能なのはKindle Keyboardと、AndroidのPocketBookというアプリである。これらのおかげで英語の文書は歩きながら読むことができるが、日本語は無理だ。

実はAndroidのTalkBackというユーザー補助機能を使えばKindleの日本語電子書籍は読み上げることができる。詳しくは キンドル(Kindle)音声読み上げアプリ(音読朗読)が秀逸【Androidアンドロイドやり方】 - ミニマリストのび太の無印良品大好きブログ」を見てほしいが、弱視者向けの機能をむりやり使って文字を読ませるのだ。

しかしこの方法はデリケートだ。1画面を超えて読み続けてくれるのはバグのようなものであり、現代のアプリに当たり前のもてなしはない。何か操作をしたり、スマホの状況が少しでも変われば、それが音声で通知されるために読み上げが停止して自動再開しないし、自分の端末では画面も点灯したままである。画面オフで読み上げ、読み上げながら音量を調整し、寝落ち用に一定時間で停止する、といった「普通の」機能はないのだ。この方も偶然理想的な設定になったスマホを読み上げ専用機として使っているとのことである。

現在のAndroidの音声入出力は非常に中途半端で、ディスプレイによる確認がしょっちゅう必要になる。経験的に、人間の側には画面を見て指先で操作するモードと、音声入出力で作業するモードが別々に存在する。音声で文章を入力しているときは画面なんか見たくない。頭の中で文章を組み立てているので、視覚資源がそちらに割かれている感覚がある。Androidの音声入力は、しょっちゅう勝手に切れるし、操作も確認も画面で求めてくる。この割り込みが非常に煩わしいのだ。運転中は危険でもある。

そういうことでなしに、完全に音声での入出力を前提に、メモ取りや読書ができるようになればいいと思う。アメリカは運転文化でオーディオブックがもともと充実しているが、これを背景に開発されたAmazonのAlexaはディスプレイが存在しないがために音声インターフェイスが非常に充実しており、サードパーティの対応製品が山ほど出て、すでにほとんどデファクトスタンダードになっているそうである(Amazon Echo、年内に日本上陸か?! | gori.me(ゴリミー))。家の中でEcho端末に話しかけることでクルマを始動したりできるのだ。すばらしい…。

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目を使わないことが格差を縮小する。これはパラダイムシフトであり、元には戻らないと感じている。

いま現在、この文章を仕上げているのは大きな画面のPCだ。音声入力した素材の編集をしつつ、新しい文章をキーボード入力でどんどん付け加えているのだが、書いたものを一覧するにはやはり視覚を使わざるを得ないというか、これは視覚のほうがずっと向いた作業である。

それでも「読み書き」という基本的な知的活動において音声に強い期待をする意識が、自分の中には完全に根を張り、それなりの場所を占めた。音声入出力の「楽さ」「快適さ」は自由をもたらすのだ。