国会図書館の全文検索って無茶苦茶強烈なのでは

国会図書館デジタルコレクションのリニューアルで過去の書籍や雑誌が全文検索できるようになってます。

これ、ごく当たり前の「図書館のホームページ」っぽい見た目で騙されるというか、イマイチ凄さが伝わってこないんだけど、出版物を横断的に全文検索できてしまう、というのはメチャメチャとんでもないことです。

ある程度以上の年の人だと、MacのSpotlightとかで、自分の書いたものがメールから原稿から何からなにまで全部ひっかかるようになった時のグリップ感みたいなものを覚えてると思うんだけど(なんで最近のOSだとイマイチの引っ掛かり具合なのか…)、国会図書館全文検索というのは、あのグリップ感が存在してる全書籍・雑誌におよぶということ。いまのところ、書籍は1987年まで、雑誌は明治期以後で刊行後5年以上経ってないとダメだけど(そして書籍は引っかかりが異常に悪い感じ)、これは順次拡大していくはず。

Twitterで話題になったのは、自分のお爺さん、曾祖父さんなどの名前を入れてみるという方法です。何らかの形で印刷物に掲載されてれば、まず間違いなく引っかかります。たとえばオレの場合、母方の祖父は会社を経営してたので官報や『大日本商工信用録』に載ってました。また、碁が五段あったので、その方面でも1冊だけ載ってて、全部で33件のヒット。オレなんか8件しか引っかからないのでずっと多い。

だけど、これはまだまだ使い方としては限定的すぎ。全文検索の力が出版物に及ぶというのは「自分に関わる文書の中を全部見られる」よりも、さらにずっとインパクトが大きいです。

どういうことか? たとえば、いま本棚からぱっと持ってきた色川武大狂人日記』のランダムに開いたページにあった一節、

つまり、インチキの印。髭、あると楽だ。

を検索してみましょう。

なんと、初出である1987年4月発行の『海燕』誌6巻4号だけが一発で出てきてしまう。 

これ、なかなかに頭がおかしい感じがしませんか。え!? いつでもどこでも思い出したフレーズで全文検索で引っ掛けられるって??!? 図書室を維持してる意味は? オレの蔵書全部無駄!? みたいな感覚。

こうなると少なくとも、「思い出したことをパラパラめくって調べるために」紙の本を持っておく必要はないですね。紙の一覧性の優位が完全に消える。

もちろん、検索で引っかかった本文がネットでは読めない(閲覧可能じゃない)ことは普通にあるから「本を所有すること」は必要なんだけど、PDFにしてしまえば「困らない」。まあ、紙に愛着がありすぎるから捨てるのは難しいんだけど。

もうちょっとやってみましょう。前に記事にした「私は慶良間の者なのです」。

kamosawa.hatenablog.com

この文言では引っかからなかったんだけど、漢字を開いたりいろいろして引っ掛けることに成功「私は慶良間のものなんです」が正解でした。

でこれ、検索結果を開いてみてほしいんですが、『沖縄の手記から』の初出である1972年8月の「新潮」のほかにもう1件、1952年12月の「別冊文藝春秋」が引っかかってる。

開いてみると、同じ田宮虎彦『女の顔』であることが判明。ゾクッとしました。同じ素材を繰り返し使ったということは、これが田宮にとって非常に重要なエピソードだったことを示唆してます。アイディアの系譜が非常に容易に得られると思う。

友人の民俗学者の話を聞いてると、文系の研究って、対象について書かれた基本書を丸々脳に入れておき、その繋がりに着目する部分が非常に重要であるように感じるんですが、それが一発で得られる感じがある。ツールが発達すると発想力が重要になり、面白い研究が出てきそう。出版物 + 全文検索、おそろしいです。

もっとずっと軽い使い方もできて、たとえば「宮城道雄 内田百閒」で検索すると、仲の良かったこの二人がお互いのことを書いてる様子が見て取れる。百閒の書いた方は結構読んでますけど、宮城道雄の書いた文章なんて現代では普通には接触不能なので、何が書いてあるかメチャメチャ興味あります。そういう調べ方も簡単にできる。

これは応用がめちゃめちゃ利くと思うなあ。惜しむらくは古い出版物しか引っかからないところ。ぜひ最新の出版物までカバーしてほしいところです。