ノーベル賞雑感

twitterからの覚え書き。

鴨澤眞夫(@kamosawa)/2016年10月03日 - Twilog より。

今後の日本で世界的な研究がしたかったら旧帝大じゃ無理で、在野のままどうにかなる数学系の分野か、豊田工業大学みたいに企業のバックアップのある私大に限られるということになるかも。そこまでして日本に居なくてもいいのでは、というのがオレの感覚。

構造的に戦略不在の日本では90年代みたいに社会に合わせて増える以外で研究予算は増えようがないし、その機会は今後50年は来ない。必要な費用は増大し続けてるので80年代レベルの予算で出来ることはわずか。一流の人ほど海外に移らないことがリスクになる。30年後にノーベル賞?ありえない。

大学の先生の事務負担が激増したのは90年代半ばと記憶するけど、その後10年くらいは日本の論文数は諸外国と似たようなペースで増えてたんだよね。21世紀になってからのことはオレはよくわからないけど、日本の研究環境の破壊については、postmortem studyをやるべきだと思う。

身近な話をすれば、大学時代の恩師で山ほど論文を書いておられたO先生が事務負担に音を上げて「オレはサポートに回る」と宣言したのが2003年くらいのはず。

2009年だったかに大学を移られるときのお別れ会で、オレら古い学生が言う先生のイメージと、今の学生から見たイメージが合わないであろうという話をしておられた。古い学生は衝撃を受けたものである。

財務省については、ノーベル賞を取ったから、だからなに? くらいの感覚だと思う。彼らはあらゆる方面からの「絶対的に重要な案件についての予算交渉」に常にさらされているので、削れるならなんでも削る。知をもつ者なら理解せよって言っても無駄で、とにかく政治的に強い交渉をするほかない。

けっきょく戦略の不在が日本の研究環境を殺したわけだけど、その戦略とは、誰が持ってるべきものだったのかねえ。市民社会と学問の乖離はまだまだ大きいままなので、全体のコンセンサスとして研究重視に舵を切ることはできなかったし、政治にもジャーナリズムにもそんなものは無かった。

とすると、やっぱり戦略は誰一人持つことなく、世間との横並びでしか予算は確保できなかったのかなとも思うんだよね。国が衰えても知は衰えず…なんてことができるような国ではなかったのだということで。

もう日本のアカデミズムは残り物をどう生かして今後につなげるかという段階に入ってると思う。その文脈で考えると、大学の先生方がまだまだ非常にハイレベルであることが目立つ。だから学部生に高い教育を施して先進国に送り出すのが正しい道ではないかと思う。

ノーベル賞をきっかけに、実に暗い方向に頭が整理されてしまったのであった。