オンライン講座おもろい

コロナ休暇対応であちこちのオンライン講座が無料開放になってるのをちょこちょこ覗いてる。オレはオンライン講座ってまったくやったことがない。他人から教わるのも動画を見るのも苦手な方だから、そういうものからは遠い人生を歩んできた。必要な知識はだいたい本から得てきた。

ところが、だからこそ、いま初めていろいろ見てみると非常に楽しい。まず、他人が教えてるところを見ると参考になる。こういうものも動画で教えていいのか、とか(画面に出せるものなら何でもいいのね)、こういうペースで教えていいのか、とか(オレの教え方は速すぎるようだ)、なにをどう操作してるのかぜんぜんわからんぞ、とか(情報の冗長性は結構大事だ)。

逆に、文章だけで「やってみせる」のは結構効率わるいんだなー、なんてことも伝わる。これはオススメの入門レベル戦法書、『将棋DVD 攻めて強くなる戸辺流中飛車』で強く感じたんだけど、書いてあるだけだとイマイチ納得の行かない手順でも、超攻撃型の戸辺先生が成立させているところを見ると、なるほどと頭に入るのだ(いきなり角を切ったりする)。これは主として「キャラクター情報」によるものだと思う。(ちなみに、戸辺先生は超攻撃的なのは将棋だけ。お顔はお茶目で表情はにこやか。いたずらっぽく嬉しそうで、色んな意味でキャラ立ちがすごい。)

また、自分にはまったく合わないタイプのオンライン講座も結構ある。電子黒板をバックにした先生が、黒板の内容を逐一読み上げる、なんてスタイルのものは、オレは退屈すぎて無理だった。でも、こういうのこそが必要なタイプの子もいっぱいいるんだろうと思う。かなり充実したところだったので、一定の需要はあるはずなのだ。

動画メディアがめちゃめちゃ発達してて、かなり知的な内容もYoutubeで見ることができるというのを、オレは小学生から教えてもらった。まともな知識伝達は書籍以外でも可能なのだ。

そして書籍同様、動画によるオンライン講座にも人による合う合わないがある。

何が合うかは見てみないとわからないので、簡単に見て回れる今がチャンスだ。

翻訳のホンは翻すのホンである

さいきん和訳に擬音語・擬態語を取り入れるよう意識してる。

擬音語・擬態語を使うと、1つの英文の塊であらわされるくらいの概念を1語で表現できる。ちょっと複雑な概念でも非常に楽に書けるし、日本語らしい簡潔な表現が作れる。

また一般的な擬音語・擬態語に加えて、日本語化されたカタカナ語も擬態語の一種と捉えることができる(この話はいずれ書く)。このへんも併せると表現が非常に楽になる。便利なスイスアーミーナイフを手に入れた感じ。

もちろん、簡潔になりすぎれば不適切なことも少なくない。英文でベタベタ書いてあった文が1語になるので、適用された文とされなかった文で長さが大きく変わる。英語と日本語では語順が違うので文同士の繋がりが難しくなることがあるんだけど、長さまで変わるとなると、文から受けとるものが大きく変わってしまうことがある。あと使いすぎるとバカに見える。

とはいうものの基本的に、擬音語・擬態語というのは日本語の表現にとって非常に便利なものである。

ところが和文英訳になると、これがそのまま地獄になるようだ。

 
 
 
 
 
 
兼光ダニエル真
 
@dankanemitsu
 
問題は擬音と擬態語です。例えば「むにゅ」(柔らかい)と「ぐちゃ」(液体音)ですが、前者は擬態語(柔らかには音はありません)ですが、後者は擬音(「液体が生む音を連想させている」)なので語源がことなります。しかし日本の擬音・擬態語のすごいのはこれらを組み合わせることができるのです。
 
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兼光ダニエル真
 
@dankanemitsu
 
「むにゅ」(柔らかい)+「ぐちゃ」(液体音)で「ぬちゃ」(粘性の高い接触音)が出来ました。 「むにゅ」(柔らかい)と「にゃー」(ねこの鳴き声)を結びつけるものは特にありません。しかし女子が「にゅ」と可愛らしく言うと「温和に感じで反応している」となります。
 
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兼光ダニエル真
 
@dankanemitsu
 
「たわわ」という単語も面白いです。たわわは元々「たわむ(撓む)」から来たのですが、「果物が大きく実り、枝が曲がった状態」なのが「果実が大きい」となり、これを巨乳になぞらえていますが、比村さんの努力結果、「ふくよかさ」という擬態語に進化しています。
 
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兼光ダニエル真
 
@dankanemitsu
 
このように「たわわ」なるシニフィアン(記号表現)は「枝がしなるくらい重さ」なるシニフィエ「記号内容」を描くだけではなく、「やわらかい」「大きい」「魅力的」という意味合いも含むようになりました。記号表現と記号内容の一方性がある意味、双方向で働くようになったのがわかるでしょうか。
 
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兼光ダニエル真
 
@dankanemitsu
 
この双方向性についてはその後のボードリヤールは「受け手側にとって記号自体に実態を見出して、虚像が真実となる(要約)」とかバルトは「記号自体により記号内容を押し広げる含意や連想、暗示を内包できる(要約)」としました。記号は凝り固まったものではなく絶えず変容・再構築されているのです。
 
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兼光ダニエル真
 
@dankanemitsu
 
さて豊かなに広がる擬態語と擬音の世界(日本のマンガ)を原則として擬態語が存在せず、擬音のバリエーションが少ない言語(英語)に翻訳するとなるどうなるか。これは本当に大変。取り組み方は色々ありますが、まずマンガの擬音・擬態語は独自の言語を形成しているのを理解するのが大事だと思います。 

擬音語・擬態語に特有の精緻な論理がある。ということは、日本語を英語で完全に表現するには、擬音語・擬態語が持つ論理・内容を訳者がいったん全部把握して言語化し、それを英文にする必要があるということになる。つまり、擬音語擬態語論理→日本語→英語という、二重の翻訳をする必要がある。

また、漫画のテンポを作るとなると、もとの日本語の長さから大きく逸脱せず、前後のつながりもきれいに収めないといけない。

これをくどくどしい英語でやるのは至難の業で、むしろ内容を認識した上で、英語頭になって書き下すほうが楽に適切な表現になるだろう。これには相当な英語力が必要だと思う。すごくたいへん。英語と日本語は斯様に離れている。

和訳の際には武器が増えるので直接の大変さはないのだけど、擬音語擬態語を取り入れるようにしてから、テンポの問題や語順問題が意識に上ることが増えた。

たぶん擬音語擬態語問題は、すべてを表面化させるんだよね。

いろいろ考えることが増えて、パンドラの箱を開けてしまった感もあり、理解が次の段階に進んでいる感もあり。おもしろすぎて人生が短い。

その不安はオレだけのものか?

新型コロナウィルスの話題がかしましい。内地では不安感にさいなまれる人が、またたくさん出ているらしく、「あまりテレビやSNSを見るな」といった注意喚起を見かけた。

そういう世相を反映して、不安は個人的なもので対処不能なんだから尊重しろ、という話が流れていたのだが、

まったく納得行かない。

たしかに不安は個人的なものだし、どうしようもない部分がある。 

わけのわからない不安感というか、恐怖感情はオレにもたくさんある。

  • 怪談の類が大嫌いで、ホラー映画も怖くて見ていられない。
  • 悪夢で目が覚めると、布団から出るどころか目を開けるのも怖い。怖すぎて二度寝もできない。
  • わけもわからず怖いときのための自分だけのおまじない、「体の中心から光が発散して魔を払うイメージ」を開発し、愛用してた。

たぶんどちらかと言うと、オレは恐怖を持ちやすい心を持って生まれてきたのだろう。それはしかたのないことである。(ちなみに、この中では悪夢が面白い。恐怖はありありと覚えているのだけど、消えゆくディティールを捕まえて記録してみると、どうしてそれが怖いのか、まったく理解できなかったりするのだ。目覚めた直後など、「いまここにある恐怖」を確かなものとして感じているのに、同時にそのストーリーのバカバカしさに呆れていたりする。)

不安は恐怖は存在する。それは理不尽に襲いかかってくる。繰り返すが、それはしかたがない。何をしても最後まで解消しないものはきっとある。

だけど、しかたがないと諦めるのは、できることをやって、この部分は対処できないという見極めが付いてからだ。不安を神聖視し、自分の中の不安という現象から目をそらすことが、自分のためになるとは思えない。歯の痛さがわかるのは自分だけだが、自分にしかわからない痛みだからといって、他人が介入できないことはないし、みんなで「お大事に」と言い合っているだけで解決することもない。歯医者に行けば、現代の歯科学でわかっている部分は解消できる。不安や恐怖に関しては歯科ほどわかりやすくないが、それでもわかっていることはたくさんある。

たとえば恐怖を生理学的に描写すれば、それは扁桃体の興奮だ。扁桃体が阻害されるウルバッハ・ビーテ病の患者は恐怖を感じないし、扁桃体の興奮は鎮静剤で抑えることができるのだ。

また、それは未知から生まれやすい。FUDという有名なマーケティング用語があるが、これはFear(恐怖), uncertainty(不確かさ), and doubt(疑念)の略だ。IBMのセールスマンが競合(アムダール)のコンピュータを怪しげなものと吹き込んで、「安全な」IBMマシンを買わせるように仕向けたことから来る。知識の欠如や疑念からは恐怖が生まれ、それは商取引を左右するほど強い。

地理的・心理的な距離感が影響することもわかっている。すなわち、ちょっと遠い人が一番不安になりやすい。

オレは震災の後に『災害ユートピア』という本で知ったのだが、大規模な災害が起きると、当事者はパニックを起こしたりせず、連帯感や社会意識が高まり、モラルの高いコミュニティが生まれやすい。逆に直接接触のない為政者や少し離れた街がパニックを起こす現象があるという。 

原発事故のときも、たしかにそうだった。不安に押しつぶされそうだったのは「少し遠い人たち」、つまり、距離的に遠い人と、関連知識のない人だった。現場の人や、放射線についての実質的な知識を持っている人は大した不安を持っておらず、ずーっと不安を抱えてた人たちと鋭いコントラストを成した。

それではどうやって「恐怖対象」との距離を縮めたらよいか。 

まずは、オレらがみんな、旧石器時代に出来上がった脳味噌で現代を生きていることを自覚しよう。 

縄文人にとって、遠くにあるけど存在がわかってるような不安要因は、「いまにも攻めてきそうな未知の敵」になる。それについての知識がなければ、「いつ不意打ちを食らわせてくるかわからない敵」になる。 

これは怖い。偵察に行って近くで見ておきたいところだが、行けば自分が死ぬかもしれない。 

しかも困ったことに、現代の「遠く」は、10キロ先の隣の集落とか、100キロ先で流行り始めた疫病とかではない。地球は狭くなり、どうかすると2万キロほど先の、地球の裏側の「敵」にすら対処する必要がある。 

ところが現代文明には、こうしたものへの「偵察」も簡単にしてくれるという側面がある。

人間は基本的に体験しか実感できない。体験しか理解できないと言ってもよい。だからこそ、言葉を持って以後の人類は、時代に可能な技術をいっぱいまで使い、疑似体験メディアを発達させてきた。口承、記録、詩歌、新聞、散文、統計、音声、映像、そしてVR。すべて疑似体験のメディアだ。 

つまり、疑似体験メディをを使って「偵察」することで、当事者となり不安を(ある程度は)解消することが期待できる。 

いま不安感が強いのは、不適切なメディアを使っているために、不確実性が解消されないからだろう。マスコミは素人であり、自分がわかっていないことを、わかっていないまま伝える。SNSも同様だ。情報を得てもなお不安であれば、さらなる情報を求めるが、同じメディアを同じ受け手が探索しても、同じような情報しか入手できない。それでも探索を続けることはできるので、不確実さを抱えたままで同じところをぐるぐる回ってしまう。

人類が開発したメディアの中で、特に優れているのは、統計、散文(小説)、VRである。統計は身近な数字に置き換えることで確実性のある体験をもたらす。散文は主人公への憑依という非常に強固な疑似体験を生むし、VRは疑似体験を視覚という脳に最も太い神経で流し込む。(この中で、統計だけが毛色が違う。数字には、たとえ情報の作成者が事実を曲げようとしていたとしても、その意図に左右されない部分が多分に含まれるのだ。ただし摂取者に一定の基礎知識を要求する。論文が読めると、こうした定量的な情報に簡単にアクセスできる。)

それでは現時点では、どのようなメディアを摂取すれば不安が解消に向かうだろうか。まずは当事者になることだ。自分に置き換えられる当事者、つまり普通の人にとっては、患者や家族の立場に憑依するメディアが必要なのではないか。

患者になりきるVRや小説があれば最高だが、信憑性に問題を感じるかもしれない。数字を解釈できればよいが、それには多めの想像力が必要だ。

いま流通していそうな情報で、不安感を解消しそうなのは、退院患者のインタビューあたりではなかろうか。

そんなわけでちょっと検索してみたが、医者の側の体験は読めるけど、患者の側のはとても少ない。唯一見つかったのがこちらだ。なかなか納得感がある。

www.huffingtonpost.jp

不安を神聖視して目を背ければ済むということはない。というか、目を背けても問題は消えないので、不安は醸され続けてしまう。

知りたいことを知りたいように知れる人間に不安はない。ところが、知りたいように知れる人間はまだ稀である。

問題はこれなのだ。文明をもっともっと進める必要がある。

 

 

訳書が発売されました。

Make: Electronics 第2版 ―作ってわかる電気と電子回路の基礎 (Make:PROJECTS)

Make: Electronics 第2版 ―作ってわかる電気と電子回路の基礎 (Make:PROJECTS)

  • 作者:Charles Platt
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

今日、仲間内に見せるために小学校の読み聞かせに持っていって、電池をなめるところとプログラミングのところを見せびらかしてたところ、娘用に、とその場でお買い上げいただいたりしました。

その娘さんはものづくり系・超集中タイプのかなり良い感じの子なんですが、昼に会った留学生からも「日本語検定の2級より文が簡単」と言われたように、言葉をだいぶ工夫したのでお母様が興味を持ってくれた感じ。

makezine.jpでの紹介 も、“回路観” のようなカモサワ語で彩られててエエ感じですw

たのしいので買ってね♪

PCR検査、すごくはやいね。

コロナの記事読んでたら、PCR検査で結果が出るまで5、6時間かかります、とあって、とても驚いた。

そんなに速いのか!、と。

PCRでは、DNAの一本鎖をバラバラの塩基と転写にまつわる酵素が入った液に入れ、決まった時間で温めたり冷やしたりを繰り返すことで、転写→二本鎖乖離を繰り返して増殖させる。化学反応だけで進行するプロセスなので、律速する(スピード上のボトルネックになる)部分が、どうしても存在する。オレが知ってるちょっと昔のPCRだと、この増殖プロセスだけで20時間くらいかかってたように思う。

しかも、増殖させれば終わりではない。遺伝子断片を大量に増やしたところで、それは機能するものではない。特定の化学反応とかしてくれないので、試薬を入れると色が変わる!みたいなことはない。他の遺伝子との違いは分子量だけなので、目的の遺伝子が相対的にどのくらい入っているか知るには、電気泳動にかける必要がある。これにも8時間とかかかってたと思う。

ウィルスの検査だと、特異的な遺伝子をひたすら増殖させればいいし、特定の重さのものを見つければよいので単純ではある。それを考慮しても、まさかあそこから何倍もスピードアップしてるとは思わなかった。今回のウイルスはRNAウイルスとのことで、いったんDNAに転写とかしないとダメかもで、たぶん手間は余計にかかってるというのに。ここらの技術の発達速度は、コンピュータにおけるムーアの法則を思わせるものがある。ヒトゲノムプロジェクトが何年も前倒しで終わったのが20年前。あのときも技術の進展に驚いたけど、まだまだ速くなってる。

あと、オレらの学生時代だと、遺伝子を直接読むのはとても面倒でお金がかかるので、細胞内の酵素を取り出して界面活性剤でまっすぐに伸ばして電気泳動する、という方法で表現型の変異を見ることまでしかできなかった。

いまは流行進行中の病気の系統推定が、ここ数週間の変異を考慮しておこなわれ、新聞に載ったりする。このレベルで変異が取れるなら、ちょっと昔にやられた系統分類学の仕事って、全部あっというまにやり直せそうだ。

…なんてことを考えながらニュースを読んでいるのである。だいぶめんどくさいw

日本人の人格的美学ってバカ殿様たちにたいへん好都合だけどそろそろ卒業させてもらってもいいんじゃないの?

ちょっと前に、こんな話が流れてきた。

 

「彼」が起きてきたら、途端にこの体たらくである。

 

全国一斉休校の速報に専門家も「ひっくり返りそうになった」 新型コロナ感染拡大防止のためにどこまですべきか?

 

長い江戸時代の間に構築された日本の文化には「バカ殿の存在」を前提にした部分がたくさんある。殿様がアホでも取り替えるわけにはいかないので、部下が勝手に頑張ることで集団を守るという考え方による。

明確な指示がなくても忖度で良い感じにやっておく、なんてのはその例だし、無払い残業を強要するブラック企業とか、そこまで行かなくても休みを取った人が(管理職が、ではなく取った人が)恨まれちゃう風土とか、「敗戦とは天皇陛下に申し訳が立たぬ」とか、もうほんといくらでもある。職責にかかわらず上司に責任を負わさない、自分らで勝手に抱え込んであげちゃうメンタリティがはびこっている。

そもそも、日本人の美学そのものがそうなのだ。「武士道」みたいなファンタジーにしても、「周囲がどうであれ、上役が腐っていてさえ自分の忠義を貫く」なんて考え方は、腐敗した無能なトップにとっては好都合なことこの上ないでしょう?

ところが、先進国の「ふつう」は違う。彼の国では上の者ほど優秀であるところが日本とは違います、と勝海舟が報告したとおり、トップ層がきちんと選別されている。

だから国同士の争いになると、日本的な方法は、ありとあらゆるところで破綻して大負けする。自然現象を相手にしているときは、日本の政府だけが劣後して、国民が大迷惑を被る。

ちなみにうまくいくときは、システム的な強さではなく、そこに存在した個人がとても優秀だった場合である。再現性はない。

もうそういうの、やめにしないかな、と思ってる。そろそろいいんじゃないですか?

「軽い神輿」を担いでるのが「公選を経てない官僚」というギャグみたいな(民主主義的には悪夢みたいな)図式を捨てないと、みんな納得して死ねない。

上を優秀にしたければ、ダメな上司をちゃんと放逐する必要がある。政治家だったら世襲の人は無条件で捨てておき、アタリが出るまで引き続け、アタリかも、と思ったら、多少のことには目をつぶって10年くらい任につけておくのだ。

まあ、「優秀さ」も難しいではある。日本って現場は優秀だけどマネージャーは壊滅気味なので、日本的な優秀さを持っていると先進国の普通のリーダーにはなれないのでは?と疑っていたくらい。

だけど、これはどうも絶対的な必然ではないというのが昨今のオレの感覚。これは選別の問題なのである。日本にもちゃんと先進国的に優秀な人はいっぱいいる。でもそういうスタイルだと、足を引っ張られて上に行けなかっただけなのだ。これは神戸大の感染症内科を見てもわかるように、組織単位の改革でなんとかなる範囲である感じ。

あと、日本の文化を大幅に取り入れている台湾が、非常にマトモな文明国になっているのを見ると、日本でもなんとかなると思えてくるんだよね。

dot.asahi.com


「だいじょうぶ、日本でもできる。」

そういう「横並び意識」ってのが発揮されないかなー、と思っている。

新しい感染症の中で求められる国際的なリーダーシップ

CoV2、いまんとこまだどうにかなるという可能性もないではないけど、確率的にいえば:

というのが世界のコンセンサスになると思う。

次の段階は、これに対する持続可能な枠組みを作ること。

それがなにになるのかわからないけど、このレベルの感染症にさらされてさえ健全に成長するグローバルな経済活動、というのが目標になる。仕組みを作っとかないと、犠牲者が大勢出るからね。

  • 蔓延を前提に考える
  • ピークを低く抑える
  • 重症者への医療資源を確保する

をふまえたルールを作り、それが守られていれば渡航などは自由にしましょう、ということになると思う。

こういうとこでリーダーシップを取る勇気こそあらまほしけれ。東アジアの人たちってこういうの苦手だけど、東アジアでこそ必要なものだ。