民俗学とAI

民俗学はへんな文化の現在状況をなるべく触らずに調査して状態を明らかにする学問だと思う。

学者に帯同して調査手法や心得の実際に触れた上でそのように思っているのだけど、この学問の究極の目的はなんなの? と聞いてもはっきりした答えがない。おそらく内部的に一番重視されてるのは学者自身の好奇心の追求なんだけど、その好奇心が究極的に何をみているのかが言語化されていないという印象がある。

オレは民俗学はぜんぜん畑違いで、あえて言うなら生物屋というか進化屋で機械屋なんだけど、そういう視点で見ると、あれは「人間」というモデルを作るための境界条件を拾ってるように見える。

彼らは何らかの文化現象に興味を持ち、その全貌を明らかにしようとする。調査方法はわれわれとたいへん似てて、対象をまず観察し、要素を取り出してその由来を調べ、あるいはその分布と年代を明らかにする。ただここがかなり違うんだけど、各文化現象は特異なもので再現性がないため、使う手法は対象に合わせてきわめてアドホックに選択され、他の文化現象との数理的な比較はほぼ行われない。

それでも学問としての信頼性が担保されるのは、個人の調査技芸に信頼が置かれるからだ。そんなやり方で大丈夫なわけがない、スケールしないだろうという理系のわれわれの印象は、実は完全に当たってたりする。たとえば彼らの博士号取得が非常に困難なのは、こうした信頼度に客観的な基準が存在し得ないにもかかわらず、科学管理・予算配分的な視点から客観性が求められて投稿論文数で測ることになっており、ところが権威ある投稿誌は非常に紙面が限られる上に審査が異常に厳しかったりするのだ。馬鹿みたいに優秀な人じゃないと博士号は取れないし、アカデミックポストもない。

でまあ、そうやってメチャメチャ優秀な人たちが客観性マックスで集めたデータが膨大に積み上がっているのが民俗学という学問の現在の成果である。

これを手作業で客体化して「人間」というモデルを作れたらすごい偉業になるよねえと思うんだけど、それはちょっと人間の作業量ではないし、モデルの形式も不明だ。

でもそのモデル化をおこなう担い手も、モデルの形式というターゲットも、現代なら現れつつあるんだよね。つまり人工知能であり、彼らがエミュレーションすべき人格だ。

シンギュラリティが来れば人間はもはや働く必要はない、やることは暇つぶしと芸術とAIに食わせるデータづくりだけだ、とは野尻抱介さんなんかが常々言ってることだけど、民俗学者が延々と溜めこんできた「へんな人類行動」の一大コレクションは、人間の数理モデルのテストスイートとして使えそうである。また、それを使った仮想環境の文化にものすごい説得力を持たせてくれるのではないか。

そして民俗学はほぼ日本にしかないのだ。

柳田國男はこれを見越して100年前に民俗学を作ったのだ、彼は転生者である、などと言い出すと、なろうの異世界モノにしかならない。とはいえこんな未来にすっぽりはまる実用性が現れるというのは「役に立たない学問」の面目躍如という印象がある。

そして内心の好奇心が求めるものの中心的にあるものは100年前の人間も人工知能もあんまり変わりがない、ということになるような気がしている。

楠公