安全と安心についてのメモ

安全と安心は別である、とはよく言われる。何が違うんだろう。

オレに言わせれば起源が違う。

安心ってやつはそもそも、安全っぽい状況に入ると心が勝手に作り出す幻影だ。危険から十分に遠ざかった、味方の人数が十分である、十分な障壁のある住処に入ることができた、などなど、安全らしい状況で心のなかに醸される何かだ。(これらは不安が存在しない状況を示す。動物の活動レベルは不安により上昇するので、行動の必要がない状況になることが安心である、といえるかもしれない。)いずれにしても、安心とは主観的なものであり、個人に属するものだ。

安全はこの逆で、危険がないことを示している客観的な状況を描写する言葉である。

安心には主体があるが安全にはないということだが、これは実際にはどのように違うのだろうか。

例を上げよう。「主観的には安全だったが」、などという記述を見れば、客観的に安全じゃなくて事故が起きる流れだとわかるだろう。逆に「客観的には安心だったが」などと書かれたら、その先がまったく予測できないだろう。

もう一歩進んで「客観的には安心だったが主観的には安全ではなかった」と書いてみようか。

吐きそうになる。まったく意味が取れないからだ。

意味が伝わりそうな記述は「客観的には安全だったが主観的には安心できなかった」であろう。

安全、安心という言葉は、こうして例を出して考えてみると、感覚にきちんと根ざしたものだとわかる。

 

ところが安全と安心は混同され、混用される。

混用が起きるのは、安心を感じているだけの主体が、自分を客観視したつもりで「安全である」と言いたがるからだ。(逆はない。「これなら安心である」と言われると、「オレの感覚を勝手に作るな」という反発があるからだ…ああいや、こういうのありますね。年金制度の宣伝とか。)

ところが感覚的な判断はしばしば間違う。客観視したつもりだけの人が言う「安全」が空虚に響くのは、現代の安全には定量性が必要だからである。

定量性が必要なのは、「安心」という感覚が芽生えた太古の昔とはまったく違った感覚世界で生きているからだ。

われわれは目で見えないくらい細かいものや遠くのものを見ることができるし、放射線だって測定できる。舐めてもわからないほど微量の化学物質だって検出できるし、隣の村より遠くの敵を認識することができる。

これにより、「感覚的には安心できないけど、客観的には安全」という状況が生まれる。

地上で受ける宇宙線程度の放射線被曝は安全だ。1000キロ先で大地震が起きても安全だ。黄色ブドウ球菌が皮膚に何千個もついていることは安全だ。

逆に、「感覚的には安全だけど、客観的には危険」という状況もある。

レーザー光線を見てしまうのは、網膜を焼くほどの光が存在することが感覚的にわからないためだ。感染症の数字が多少増えても平気でいられるのは、人間の数理感覚が鈍く、指数関数的増大が認識できないためだ。

 

感覚的に捉えることは、危険の過大評価や過小評価を生むことだ。これでは「安全」は得られない。

ところが感覚的に捉えていないことに対しては「安心」が得られない。

われわれは数量的に計測し、数式で表現し、グラフを描くなど、人類が脳の外部に拡張した非感覚的な能力により「安全」を捉えているわけだが、これは感覚で捉えられないものを感覚化する作業である。

「安心」がないとリラックスできないので、客観的に安全という状況を認識し、感覚を騙して「安心」回路を働かせる必要がある…というわけだ。

 

安全と安心の齟齬は、文明化した人類の能力の増大に個人の脳が追随できない例であろう。

「安心」って感覚はポンコツすぎて現代人の生活では役に立たないんだけど、脳に組み込みになってて外せない。

逆に「安全」を認識するには脳の外部に拡張された非感覚的能力を使用する必要があり、広い範囲の知識や認識方法を学習する必要があるので、だれもが得られるものではない。

誰もが安心を求めるのは当然なのに、因果な話である。

 

余談。人間の脳の非合理的なバイアスは人類が最大150人のムラに住んでたときに人間関係の問題を高速に処理するためのアクセラレータ回路によるものって話があり(ダンバー数問題)、オレは社会問題の大部分はこれに根があるように感じているのだけど、安全安心の話はちょっと違うかもしれない。