寺のように朝の掃除をして暮らしてる今日このごろですが

今日は長時間お片付けのチャンネルを見てしまった。


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自分では「子供の頃からエースで4番」級の汚部屋製造野郎だと思ってたけど、こういうのに出てくる全日本級の人たちに比べると、ぜんぜん大したことない。もっと精進せねば…じゃなくて。

思ったのは、捨てるのが面倒で積み上がってるだけの廃棄物も、自分だけが思い入れを持っている古いものも、客観的に見ればそこそこ価値があるだろうものでさえ、他人から見れば等しくゴミなんだなあ…ということである。

記憶にはポータビリティがない。脳は直接接続できず、記憶を伝える手段は言葉や絵や写真といった限定的な媒体しかなく、そのバンド幅は極めて狭い。モノにまつわる記憶は現状維持すらできず単調減少するのみで、言ってみれば死んだ人に関する記憶の総量とまったく同じだ。

小学生のときに乗った船で作ったメダルのキーホルダーを見て、船酔いで食事できず何度も買ってもらったピノの味や、大浴場のお湯の傾き、ディスコで流れてた曲、そうした背景から浮び上がる父との精神的交流…といったものを想起できる人間は自分以外にいない。そんなキーホルダーが入ってる平たい缶のガラクタ箱を見れば、他人は「なんかジャラジャラしたゴミ」と思うだろう。

数千冊の蔵書の一冊一冊にオレが抱いているちょっとした思いを注釈として残すことすら不可能で、我が家の図書室は「なんかいろんなジャンルが混ざってて参考にならなそうな本棚が並んだ部屋」でしかない。

もちろん、他人にとっての価値とかどうでもよいし、自分に大事なものを自分だけで愛でていればよく、自分が死んだあとは何がどうなろうと自分には関わりのねえことでやんす。というのはその通りだ。でも、こうした大量の思いが生まれ、また消えていっているという事実を思うと、なかなかに強烈な無常を覚える。

人間は無から出て無に帰る。後には何も残らない。