戦略級、作戦級、戦術級

むかしの紙のウォーゲームは、戦略級、作戦級、戦術級という分類がなされていた。戦略級なら一国の運命を担う立場を、作戦級なら作戦を統括する立場で、戦術級なら、建物を攻略する戦隊指揮官とか、戦闘機を操縦するパイロット視点をシミュレートする。

テスラの信じられない発表「コントローラーを半導体に合わせる」

という話を読んで、この尺度のことを思い出した。

「我々の開発チームは、半導体不足から引き起こされる製造の問題について対応するために、これまでにない取り組みを開始している。我々のエレキとファームウエアのチームは、19もの新たなコントローラーを用意し半導体不足に対応するために鋭意、設計や検証に取り組んでいる」

日本標準からすると、クルマ業界はむしろかなり戦略的に動く方だ。サプライチェーンの停止に備え、複数調達先の確保なんかは当然やっている。整備マニュアルを見てもわかるのだが、ラジエーターなど3社くらいから調達してることがあるし、トランスミッションみたいなクリティカルな部品も2種類あったりする。

しかし、テスラのこのストーリーが示すのは、「彼らは社内でインターフェイスを統一し、コントローラをプラガブルにしているのではないか」ということである。要するに、パソコンのマザーボードみたいに個別に置き換え可能な部品として扱うようにしたのではないか、ということ。

これは実現すればゲームチェンジャーだ。クルマの開発サイクルとコントローラの開発サイクルを分離することができるからだ。これを推し進めると、車種の違いはモーターと電池、シャーシの性能だけの違いになり、コントローラは同じものをパラメータ変更だけで使えるようになる。管理すべき部品の種類は減る。コントローラについては(PCと比べて相当ハードルは高いものの)「互換機メーカー」が現れる余地すらある。

日本のというか、テスラ以外のクルマは全部ガラケー的に開発されている。コンピュータは専用設計で、ベアメタル開発的な手法で部品の性能を出し切るようにする。

テスラはクルマをiPhoneにしようとしている。

コントローラの性能が次第に上がっていくのであれば、こうした設計思想への転換は経済学的に自然な動きである。標準化して独立性を上げることは、規格作成のコストが吸収できるのであれば、以後の設計費用を減少させ、見積もりを楽にし、製造上のボトルネックを解消する。

この視点を見てしまうと、一般自動車メーカーの「戦略級」に見えていた複数調達手法が、実は「作戦級」にすぎなかったことがわかる。複数調達は対処の方法であり、ゲームのルールを変えないから。

テスラの方は、拡張を実現するために全力を尽くす、というのが実にアメリカンであり、「知の自由競争」的であると感じる。

以前の通りの開発手法を変えず、感覚に対してこういうとこで無理をせずに個々の開発で無理したがる日本式とは、ものすごく違う。

つまり、知の自由競争(サイエンスやデモクラシー)が戦略級になってるのが西欧文明、作戦級なのが東欧&中国、戦術級なのがアジアと南米、個人レベルなのが日本かなー、と。

おそらくは、仕組みを作るということに関して、われわれはまだ文化的にはるかに後方に居るということをちゃんと認識すべきなのだろう。世界中で「知の自由競争を基盤哲学に置く」が発見できたのは西欧文明だけなので、アジアが劣後するのは、まあまあしょうがない。

しかし中国みたいなシステム志向の国では、「作戦級」におけるサイエンス的手法がたくさん導入されるようになった。根っこの哲学はあくまで、中国中原がすべての中心、かつ、その都合でなんでもやるという主義(中華思想)なんだけど、実地にはかなりサイエンティフィック。

対して、日本はなんでも手動でやりたがるんだよね。サイエンスとはなにか、みたいなことをちゃんと知ってる人はいっぱい居るけど、それは仕組みに反映されない。個人レベルにとどまる。

というわけで、小学校の教育を直さんといかんし、そのためには自民党独裁体制をどうにかせんといかんのですよ。(つながった

そういえば、梅棹忠夫の『文明の生態史観』には、日本は絶対的な中央集権ではなくfeudal lordsの割拠する国だから西欧に近いとか書いてあったけど、けっきょく「知の自由競争」がまったくわからないのだから、ぜんぜん違うと思う。「そういうのもわかる」人がいっぱいいるだけ。

そして、「そういうのもわかる」人の数の多さと範囲の広さが日本文化の強みかなと思う。システムは変わらず、個人がそれぞれ勝手に実装する。

めちゃめちゃ効率悪いけどね。