ヒトという種の弱さを知ってテキトーに

ヒトの脳はあまり合理的ではありません。論理を積まずに直感で判断すると、大事なことを簡単に間違えるようにできてます。この種の「合理的判断からの逸脱」のうち、誰でも同じ方向に間違えるものをヒトの認知バイアスと言います。見たり聞いたりしたものの受け取り方の偏り、という意味です。

自然は合理的に動いてるのに、ヒトの脳が自然を偏った形で受け取るのは、まず第一に、生物というものが偏った存在であるからです。

生物進化とは生存した者の持つ性質を残すだけの篩であり、合理的判断よりは生存のための短絡回路を持つ者が残ります(短絡回路が「進化」しやすい)。怖いものを見たら全力で逃げたくなり、逃げられなくなったら反撃したくなる、というよく知られた心理はこの例です。

第二には、ヒトは自然環境ではなく人間社会の環境で生きていることがあります。この「人間社会」とは現代の億単位の相互作用するヒトで構成される現代社会ではなく、長く長く続いた旧石器時代の最大人口150人レベルの村のことです。

こうした人間社会に(というか、それを反映したヒトの心の中に)だけ存在し、自然環境には存在しないものが実はたくさんあります。たとえば「絶対」というのはヒト特有のバイアスで、絶対的な神を信じて戦うとか、敵対者を絶対的な悪と思い込むようなことを、他の生物はしません。

現代社会の問題の多くは、文明の発達によって、つまり、ヒトが増殖し、交通が発達し、情報が高速高密度で伝達され、共通性が認識されることによって、バイアスよりも合理性の方がずっと利益が大きく満足度も高い状況になっているにもかかわらず、「自然に」振る舞うことでバイアスに支配された行動を取ってしまうことから生じています。

この弊害は最近とみに顕著で、特に震災からこのかたの日本で、軋轢が非常に大きくなっているように感じます。つまり、「自然に」「本音で」生きてきた人たちと、「科学的に」「建前を大事にして」生きてきた人たちの対立が深まっていることが観察されます。

ここで興味深いのは、前者のいわば「自然派」の方が、はるかに不合理な認識を持ち、常に間違うため充足することもなく、閉じた生き方をしがちであることです。自分の感じた通りに生きたい、幸福への希求が強い人だからこそ、間違い放題に間違わされて不幸になるのです。

こんな環境で、本当に幸福な人というのは生じうるのでしょうか。

オレは自然派であるが故に科学を志向するというタイプですが、科学を志向し知識を蓄積し行動を変えていくことで得られる納得や満足感は大きいものの、本当に自分の望んでいるようにやっているのか、という疑問と軋轢は常に自分の内側に存在します。心を開放すると変なことをやらかすし、開放しないと納得がいかない。やらかしを責められるのは、あるいは責められそうに感じることは嫌である。でもその心配は杞憂かもしれない。

こうした二律背反の中を長いこと生きてきての今の所の結論は、「自分の歪みを認識することで、本当の望みを知ることができる」です。

自分の歪みの一部は多くは生物あるいはヒトであることに由来し、逃れようがないので、頭の中でそれらを足し引きするのです。21世紀になって脳のバイアスに対する知識がわかりやすく解説されるようになったので、それを知り自分の感じ方に適用するのがよいと感じています。以前紹介した池谷裕二さんの書籍なども良いですし、twitterbiasbotのフォローもオススメです。

自分の歪みがいかに逃れようのないものかを知っていくと、他者のバイアスもいくらか勘定に入れられるようになるので、いまそこで何が起きているかを見通しやすくなります。こうした心理に、他者を勝手に推し量る傲慢さを感じる方もいるかも知れませんが、自分の判断力の正確性は(唐突な話だけど)株を買ってみるとよくわかります。

話が脱線しましたが、オレがやらかしと開放のバランスを取って楽しく生きるために特に気をつけるべきだと思う、ヒトの認知の不完全性は次の3つです:

  • パーフェクトを目指す
  • 量の見積もりや比較が苦手
  • 相関と因果の混同

これらのバイアスをキャンセルするため、オレは逆のことを心がけています。これを「テキトーな生き方のための三カ条」とでも名付けましょうか:

  • いい加減で諦める
  • おおまかに数であらわす癖をつける
  • だいたいのことは偶然だと心得る

めちゃめちゃテキトーに生きているようで笑っちゃうけど、まあそれぞれ解説します。

いい加減で諦める

知識を掘るときは、根本のプリンシプルを絶対に外さないで、逆に細かいことはどうでもよいという態度を取ります。

パレートの法則を持ち出すまでもなく、ひとつのことをパーフェクトにするまで他のことに取り掛からないのは非常に不利です。特に、スキルの習得などゴールのない分野では、パーフェクトにこだわると永遠に次のことに取りかかれません。

逆に、どんな分野でも80点くらいならすぐに取れるものです。80点では役に立たないかもしれませんが、100点ではなく95点を目指しましょう。これは根本のプリンシプル+アルファくらいの知識です。

将棋で言えばアマ12級くらい。これは「小学校のクラスで1番」くらいにはなれるけど、本気でやってる人にはまったくかなわないくらいの実力です。

おおまかに数であらわす癖をつける

これは定量化の第一歩です。情報を量に変換し、自分の知ってる量と比べるのが目的であります。料理のレシピを材料に対する塩分と捉えるアプローチがあって新鮮に感じたことがあるが、量を率に、率を量に変換してみるのも、ざっくりとした、しかし本質的な理解を助けます。

これをやるときは、あまり精度を上げようとしない方がいいです。わかっている概算値を適当に当てはめて、桁違いになっていなければOKくらいの気分で進めます。そしてその状態を自分の見える景色に変換します。

たとえば、子どもの貧困率は13.5%と聞いたとしましょう。人口に対する割合は自分の小学校のクラスに当てはめるのが理解が速いです。「40人学級の13.5%は、えーと、12.5%が1/8だから5人ちょっとが相対的貧困という世界か…」と換算して、そのクラスの日常を思い浮かべます。

さらに、「うちの市の人口は10万くらいで子供の率をざっくり20%とすると2万の1/8くらいで2500人くらいは貧困家庭か」などと換算できたらサイコーです。どんなことでもそのように自分の実感可能な数に変換できるようになると、数字の実感的理解が速いです。(ちなみに沖縄県の子供貧困率は全国平均よりかなり高く30%程度なので、40人クラスで12人くらい、市内で6000人くらいになります。)

だいたいのことは偶然だと心得る

これは「OOのあとXXが起きたからOOはXXの原因」と考えず、「OOのあとXXが起きた、しかも3回続けて。でも偶然かもしれない」くらいの勢いで、物事の関係を偶然側に寄せて見ることです。

これは三カ条の中でも特に難しいやつです。なぜなら、現代生活で入ってくる情報は、そのほとんどが他人を通じてもたらされるものなので、必然的に情報をくれた人のバイアスが反映されるからです。

噂話は独り歩きするし、ニュースは事実だけを伝えないし、伝言ゲームは正確に伝えろと言ってるにも関わらず入力とまったく違ったものが出力されます。そして生物とは存在しない因果を勝手に類推するものであり、ランダムなタイミングで与えられた報酬にはランダムなジンクスを編み出します(スキナーの鳩)

入ってくる情報にバイアスが掛かった状態で、情報を貰ってる自分自身にもバイアスがあるのだから、現代人が世のすべての現象に因果を見出し、さまざまな陰謀論に染まりがちなのはむしろ当然のことです。

こうしたバイアスをカットする方法として、医薬品の治験では二重盲検法という手順が用いられます。治験では当該医薬品投与群とプラセボ投与群が比較されますが、このとき治験に参加した患者だけでなく、薬を投与する医師も、投与している薬が実際の治験薬なのかプラセボ薬なのかを知ることがないようになっています。医師のちょっとした態度などで患者が投与薬を知ることがないようにしてあるわけです。

自分に入ってくるさまざまな情報に二重盲検法を適用することは不可能ですが、それに近いことはできます。「XXによりOOが起きた」的なストーリーを見出したら、それがいかに当然のものに見えたとしても、実は偶然起きているという場合のストーリーを考えてみるのです。

「いくらなんでもXXの(あのバカ男の・外国勢力の・ワクチンの・昼間食った刺身の)せいだよね」と自然に思ったことに対しても、「実は単にOOの(自分の体の・自分の文化の・睡眠の・水分補給の)調子が悪かったから」というストーリーは立つものです。どちらが本当に近いかは誰にもわからないけど、どちらも100%確かなことではないはずです。

そうやって必然と偶然を相対化して見積もる癖を持つと、見えてくるものはいろいろあります。社会で起きてることだけでなく、自分の傾向も見えやすくなります。

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「テキトーな生き方」について長々書きましたが、これらは実際には意識的楽観だとか客体化だとかが必要な手順であり、ヒトの心には不自然な行動なので、あんがい難しいものです。

こうした抑制を外したくなったら、酒を飲んでクドクド絡むのではなく、絵を描いたり楽器を鳴らしたりプラモデルを作ったりして、心が求める完璧を与えてやるのが良いように思います。アートとは徹底的に心に沿ったものだからです。

ともあれ、テキトーに生きて行こうではありませんか。