「なぜ」データジャーナリズムか

なぜ今、「データジャーナリズム」なのか?(津田大介の「メディアの現場」Vol.54 より) というのを読みました。あんま面白くない。

なんで面白くないのかといえば、これがぜんぜん「なぜ」じゃないから。海外で流行ってるから、というのは「なぜ」じゃない。トレンドだから乗らなきゃ云々とか、そういうのって本質的にまったくどうだっていい。オバマがデータを使ったら勝てたから大事なの?「なぜ」を問うなら、もうちょっと哲学的に行ってほしいところ。

データがなぜ大事なのかといえば、それが客観であり、体験であるからです。

人間は自分の体験したことしか理解できません。人のやったことを理解するには、なんらかの形で追体験することが必要です。そのツールが物語であり、データなのです。

物語は誰もが理解できます。それを自分の身に引き比べて脳内で体験することができます。しかし物語が短く単純になるほど、複雑な事柄を言い換える抽象化が起きます。物語には必ずこの抽象化が伴いますが、これにより漏れる事実が多いこと、文面から想起されるものが人によってまったく異なることから、正しい情報伝達になり得ないというデメリットがあります。また、単純な物語であれば、それを作り出すことも容易です。補完が強く働くために、それを本当には理解していなくても表現できるからです。このため事実でないものが伝わっていくデメリットもあります。

物語を精緻化していくと小説ができあがります。説明でなく描写で表現することを良しとするこの形式は、追体験型の情報伝達に非常に優れています。作り上げた物語に強烈なリアリティを与えるこの表現形式は、未来をシミュレートするためのツールとして使われてきました。SFのみならず、通常の小説に社会的な意味があり、小説家が社会に影響をもたらした時代が長かったのは、おそらくこのためです。

データ、つまり数字のならびで情報を表現するという形式は、追体験のツールとしては最高であるものの、読むのに訓練が必要でした。

自分が記録したデータと、他人が同じような条件で記録したデータには高い互換性があり、たとえばオレは身長が171.5cmなのに体重が80kgに達してしまいましたよ、と言えば、そのなんともいえない感覚は容易に伝わるわけです。データになっていれば比較もできるし追体験もできます。そんなわけで昔から自然科学では「記録なきところに現象なし」というくらいデータを重視していました。でもデータというのは数字の羅列であり、ちょっと複雑なデータになると読める人が極端に限られました。

データジャーナリズムというのは、主に社会的なデータをビジュアライズして誰もが見える形にして提示し、見えなかった事実を浮き彫りにして人々に伝える形の報道行為です。それは視覚という、人間の脳と最も太い神経索で繋がった感覚器官を通し、社会的なデータをダイレクトに伝えることなのです。

これがデータジャーナリズムの「なぜ」です。データのとり方には注意が必要ですが、誰でも取れるけど読めなかった客観的事実を、誰にでも理解できる形にしてしまえることが大事なのです。その効果が高いのは当たり前です。データはどんどん公開されていますし、それを処理する技術もどんどん進んでいます。データを見れば、公表されていなかった情報が浮き出ることも多々あります。

民主主義がうまく機能するには、その参加者の一人ひとりが事実の本質を理解していることが必要です。それには理解力も事実もたくさん必要で、これまで圧倒的に足りていなかったわけですが、それがデータジャーナリズムによって大幅に底上げできることが明らかなになってきたのです。ものすごく沢山の人が、ものすごく正しいことを認識して、実際に機能する民主主義が出現するかもしれなくなった。

これがデータジャーナリズムの「なぜ」です。その他のことは枝葉です。

2013/01/08 2:55初稿
12:50 文章のわかりにくいのを修正