現代人向けの平和教育

慰霊の日の前後の沖縄は平和教育週間といった趣になる。小学校の読み聞かせでも、沖縄戦や平和にまつわる本を読んでくださいというリクエストが来る。

沖縄では、地域のどこで戦闘が行われた、ここの人たちはあそこにある壕にこもった、といった口伝を伝える形で、内地より100倍くらい濃い平和教育が行われている。

戦後も80年が近づき、戦争体験者の高齢化により一次話者を失いつつあるものの、こうした活動の持つ本質的なリアリティには圧倒されるものがある。

また、たとえば「ひめゆりの塔」には、何月何日にどこまで移動した、誰々(個人名)がどこでどんなふうに亡くなった、という記録が数多く記されている。こうした日数、経過時間、距離といった情報は「数字による体験化」を生む。

描写だけではわからない実感が出ることは、体験しか本当には理解できない人間にとってたいへん重要である。

しかし、こうした「現場のリアル」一本槍で沖縄戦を伝えることについて、それを初めて知った大学生の頃から、オレは何かしら本質を外しているような感触を持っていた。

もちろん、沖縄戦が生活の場で行われた戦争であること、身近な場所で身近な人が犠牲者になったことが、その悲劇の本質のひとつであることは間違いない。

しかしこれらは、本質的であるもののいわば現場だけの「横軸の本質」であり、全体の様相を提示しきれていないように思えるのだ。

全体を示すのに必要な「縦軸の本質」は、沖縄戦が沖縄の防衛のためではなく、国体なる抽象的な価値の防衛のためにおこなわれたものである、ということだと思っている。

日清日露から第一次大戦、シベリア出兵など、日中戦争までの日本の戦争は、防衛の名を借りた帝国主義的欲望の発露にすぎない。

ロシアの脅威を除くための緩衝地帯が必要と言いながら、それと無関係な台湾に兵を進め、朝鮮半島の植民地化では飽き足らずに満州国という傀儡国家を作ったことは、つまるところが領土的野心である。このことは当時も小日本主義を唱える石橋湛山らが指摘している。

日米開戦だけはこれらと違う。日米開戦は、国内の力のバランスがあちらに傾き、こちらから押され、外交に失敗し…と、誰の意志でもなく成り行き任せによって生まれた、誰から見ても最悪の結果である。

そして、終戦前にしきりに言われた「国体の護持」という特殊なキャッチフレーズは、こうした開戦の経緯を反映している。それまでに叫ばれた八紘一宇だの大東亜共栄圏だの悠久の大義だのといった愚にもつかないキャッチフレーズと、終戦前に強調された「国体の護持」とは、少し性質が違ったものである。

ひとつには、「国体の護持」、という言葉があまり勇ましくないことがある。それまでのキャッチフレーズと違い、「国体の護持」には前進、発展、永遠、といったイメージがない。いわば後ろ向きのキャッチフレーズなのだ。

もうひとつには、「国体の護持」をする当事者が為政者であり、国民ではないということがある。これは為政者の内部的な価値観であり、彼らは他人ではなく自分にこれを語っているのだ。

国体の護持なる言葉の本質はここにある。「国体の護持」とは、大本営から御前会議に至るまでの日本の中央部が持つ、変化への恐れの素直な発露なのだ。日常を継続したいという、いわば地に足のついた欲求を言葉にしたものである。

地に足が付いているというのは、それに価値があるという意味ではない。欲求として、より根源的であるというだけのことだ。より動物的な欲求であるがために、いざ言葉として表現されたときに、より強い方向性を生むということである。

当時、国体とは何かという定義はどこにもされておらず、これを護持することにどんな意義があるのかは明確に言語化されていなかった。それが何かを答えられたような者は居なかった。純粋な「言霊」であるとも言える。

そして、沖縄は大本営にとって護持すべき国体の一部ではなかった。国体護持のための縦深戦術陣地のひとつでしかなかったのだ。

これは結果的にそうなったという話ではなく、1945年1月の帝国陸海軍作戦計画大綱に:

四 皇土防衛ノ為ノ縦深作戦遂行上ノ前縁ハ南千島小笠原諸島硫黄島ヲ含ム)、沖縄本島以南ノ南西諸島、台湾及上海付近トシ之ヲ確保ス

 右前縁地帯ノ一部ニ於テ状況真ニ止ムヲ得ス敵ノ上陸ヲ見ル場合ニ於テモ極力敵ノ出血消耗ヲ図リ且敵航空基盤造成ヲ妨害ス

と書かれたときには、それが陸海軍の間で同意されるレベルで、既に事実であった。

大本営が沖縄守備の第32軍から兵力の相当な部分を引き抜いて台湾に回したことも、「軍官民共生共死の一体化」という方針で沖縄政府や民間を徹底的に巻き込んだことも、沖縄のためではない。前縁防衛の「コスパ」を上げるためである。

彼らには、沖縄県民を守る気など一切なかった。そんなことを歯牙にもかけないことが、むしろ常識であった。

(そして実のところ、日本の国土全体が、彼ら中央の人間にとって、長い長い縦深陣地でしかなかった。国民を守る気など一切ない。そうした空気を肌で感じていた小松左京が、本土決戦の起きたパラレルワールドで動員された学徒部隊「黒桜隊」での主人公の体験を描いたのがデビュー作『地には平和を』である。)

この間読んだものに、いまの若者はみんなが決めたことに弱い、それを必ず守らなければならない、背くことはできないと考える傾向にある、という話があった。

これは昔からの日本人の宿痾、「空気の問題」と呼ばれているものに非常に近いのだが、現代はさらに強化されているという。

たしかにそれは、若者と話すたびに感じることである。舌を巻くほど優秀な人から、学業的には残念なカテゴリーに位置づけられる人まで、彼らは異様に行儀が良い。空気を壊したがらない。

それは、よく言われるように「失敗を恐れている」と言うよりは、自分の失敗があらわになることで、場の雰囲気が壊れることを恐れているように見える。場の雰囲気にこそ敏感なのだ。

教えている教室で非常によく感じるのは、たとえば多くの学生が「自分だけがわかっていないと思ったこと」を質問できないということだ。「わかった?」と聞くと「わかりました」と答える。しかし、まったくわかっていない。こちらから少し突っ込んだ質問をすると一瞬で破綻する。しかし、何度同じことを繰り返しても彼らは言う。「わかりました」と。

もちろんこうした行動も、日本文化の宿痾のひとつであり、昔からの日本人の傾向といえばそうかもしれない。しかしオレはそうであるとは信じていない。いまの若者文化の「そつのなさへの撞着」は異様である。

ところで、ここには男女差がある。もちろん例外は少なくないのだが、空気を壊さずに疑念を表明するコミュニケーション言語を持っている女子は、まだ素直に自分の考えを口にできる傾向があるのだが、ストレートな言葉で表現しがちな男子たちは、この行儀の良さを内面化してしまっているところがある。

若者が現状に従順で疑念を表明しないことは、社会にとってきわめて危険である。それは変革を阻害する。おかしな現状を変革しようという方向性すらあやふやなれど強い意志、というのは、歴史的には若者の特権であり、その表明により社会がちょっと不安定になり、エスタブリッシュメント(オッサン)に都合の悪いことがいくらか起きたとしても、トータルでは全体が得をする。しかし、そうした道は現状ではかなり閉ざされている。

そして疑念を表明しないことは、社会全体だけでなく、彼ら個人の問題となる。中央の「みんな」と自分との立場の違いを理解せず、なんとなく自他を同一視して、押し付けられたことを「決まったこと」だと従い続ける者は、安易に作られた虚構の構造にやすやすと組み込まれ、やすやすと殺されてしまう、あるいは少なくとも、食い物にされてしまうのである。

現代は個人の能力が増大し、「中央のみんな」にもしっかりした人権感覚を持っている人はきわめて多い。むしろ、地方より中央に多いだろうとオレは思っている。

しかしながら、人間の行動を規定するのは人間関係である。立場だけが人を作る。個人的な人格等とはあまり関係なしに、人間は行動を縛られるのだ。そして人間性とは思考よりも行動によって規定される。

だから、構成人員と話せばマトモな常識人ばかりなのに集団としての行動が非人間的な「キチガイ集団」は、古今東西どこにでも存在する。大日本帝国はそのひとつの例だが、現代の日本国がそうならない保証はまったくないというか、たとえば入国管理局の異様な人権無視のように、時代はすでに危険をはらんでいる。

「中央のみんな」に属する人間は、中央での立場構造のくびきから逃れることはできない。彼らはいざとなれば非情な決定を下す。そして中央と地方の人間関係の近さ(馴れ合い)は、利害対立が起きたときにそれを隠し、中央の立場のみを押し通す隠れ蓑にしかならない。政権の役に立っていれば沖縄の利害を忖度してもらえると思っている者たちは、そこのところを勘違いしている。対等でない関係ができてしまえば、強者は何も理解する必要がないのだ。

立場の違った者の利害に巻き込まれずに要求を通すには、馴れ合わない俯瞰の目と、逆説的だが相手の立場に立って利害関係を考える想像力が必要である。

だいぶ話が遠回りした。

こうした構造を踏まえていくと、現代の沖縄に必要な平和教育とはどんなものか、いくらか見えてくるのではあるまいか。

平和教育は、「ぜったいに避けたいエンドポイント」を体験のリアリティで伝えるとともに、「なぜそれが起きたか」を俯瞰の視点で見せ、「立場が違えば正義は違う」という歴史的事実を踏まえさせた上で、「それを認識するには個人の独立が必要である」という自覚の促進まで踏み込む必要があるし、またそれが可能であるように思うのだ。

実現はどのようにでもできる。教える側が自覚を持つか否かである。

参考文献:

納骨堂であった慰霊塔、慰霊碑、ガマといった「沖縄人の戦跡」が、時代とともにどのように扱われ、それはどのように変容してきたか。そこに働いた力はどのようなものだったか。ということを克明に追った博士論文。