これぞ日本のオ・モ・テ・ナ・シ!!

すごく面白いことに気づいた。パンデミック下の東京オリンピックって、日本のマネージメント層の全体の見えなさ、現場丸投げ体質、リスク管理能力の欠如その等のダメダメっぷりを、世界中の人たちが当事者として体験できる空前のイベントじゃん。

日本って昔は「不思議の国」で、特に経済大国として大成功してた時代に言葉の壁によってほとんど内情のわからない謎国家だったから、世界では外形標準的に「西側民主主義国でアメリカとの強い同盟関係を有す経済大国」ということで、自由と芸術の発達した先進国と思われ尊敬されてたんだよね。

だけど、ネット時代になって「可視化」が進んだ。特にGoogle翻訳によって、メディアの日本通ではない、デスクレベルの人たちが日本の報道に触れるようになったのがデカくて、最近はどんどん軽蔑されるようになった。

今回のこれは、選手たちのみならず、政治経済系ではないスポーツ専門記者なども等しく「アレ」を経験する。彼らは国際関係などに興味のない一般人に何が起きているかを伝えるプロである。

だから今回は、世界中の庶民レベルの人たちが日本の機能不全を体感できるという又とない一大イベントだ。これにて日本社会の可視化は完了する。

ワクチン接種者の世界

2週間ほど前に1回目のワクチンを打ってきた。

巣篭もり生活で体重が増えたオレは高BMI者の枠(通称デブ枠)で早期に接種券を貰えたので、すぐ予約サイトにアクセスしたところ、県の集団接種会場が当時まだガラガラで、翌日早速1回目を打てた。2回目は8月上旬に予定されている。

ワクチン接種者にとって、COVID-19は「ただのインフルエンザ」になる。接種してからデータを見ると、数字のそれぞれがおおむねインフルエンザなのである。

ワクチン接種者には以下のような変化が起きる(オレはまだ2回接種後2週間の「接種完了者」ではないので、ここからは数字からの類推である):

  • 罹りにくくなる。発症リスクはデルタ株で60-70%減なので1/3程度になる。すれ違って感染とか三密=危険といった強いストレスは消える。
  • 死ななくなる。重症化リスクはデルタ株ですら95%低減する。致死率1%が1/20と2桁近く落ちれば、インフルエンザとだいたい同じオーダに落ち着く。
  • たとえ感染しても感染させにくくなる。これに関するデータは見たことないけど、機序を考えると排出ウィルスカウント(微分値)も排出期間(積分値)も小さくなるはず。つまりマスクを付けなくてもいいかなと思いやすくなる。
  • 病院が普通の場所に戻る。高齢層の接種が進んで医療崩壊が遠ざかること、入院時の院内感染リスク等を考慮する必要がほぼ無くなる。

ワクチンの有効性は100%ではないので感染の危険はあるし、感染させる危険も相変わらず残っている。接種の進んだ国で再度感染が拡大しているのはそういうことだ。

しかしワクチン接種者にとってのCOVID-19とは「まず死なない病気」であり、それに強い注意を払うことはできなくなる。ワクチン接種者同士の会食や旅行による感染拡大リスク、危険度の高いスボーツなどによる入院リスクは、昨年のような青天井のものではなく、それ以前の人生で想定してきたレベルに落ち着く。

ワクチン接種者だけなら普通の生活ができるし、普通の生活を始めれば、心はこの病気から遠ざかっていく。

なにしろ、普通の生活をすることで感染が拡大したとしても、接種者自身のリスクはほとんど増大しないのだ。未接種者が死ぬことに心を痛めたとしても、自分にとっては「ただのインフルエンザ」のまま。緊急事態的な行動は不可能である。

これは普通に考えても接種者と非接種者の分断を招くと思うが、ここで考慮すべきは医学的に接種できない非接種者の存在だ。PEGでアナフィラキシーの既往がある人を筆頭に、医師と相談の上でワクチンを打てない人がいる。

彼らは当然にワクチンの集団免疫によって守られるべき者である。ワクチン接種率の向上が社会的目標になるのは、集団免疫とは免疫のある者が多数存在することで免疫のない者を守るシステムであり、それは自分で選んだわけではない運命に巻き込まれる者があってはならないという現代の社会正義の価値観に沿ったものだからだ。

だからそれ以外の、医学的に接種可能であるにも関わらず接種を忌避する者の立場は良くてフリーライダー、悪くすると加害者となる。社会の守護者+庇護者 vs. 加害者、という図式が成立するのだ。

忌避者には忌避者なりの論理や自然な感覚があるはずで、それを簡単に捨てることは想定できない。だからこれは、普通に考えられている以上の分断になる。大きな問題であり、彼らの信念に沿った説得が必要になるだろう。

ただ、これは問題だ、と書きながらも、頑固に接種拒否する人に対しては、オレも冷ややか以上の態度を取れるような気がしない。分断は見えてるが解決は思いつかず、予見し警告を発しつつも救済できるとは思っていない。

オレにできるのは、見えてしまった景色を書き記しておくことくらいである。

インドカレーを楽に作りたい

雑にインドカレーを作る方法を探索しています。いわゆるバターチキンカレーとかの、ペースト状の野菜で肉を煮込んだ基本的なやつが好きなんですが、この種のカレーはタマネギのすりおろしたのを炒めるとこが非常に面倒なので、ここを省力化したい。

ここのところよく使っていた方法は、荒く切ってミキサーに突っ込んでペースト状にしたタマネギを、炒めずにどんぶりに入れて電子レンジにかけ、10分ほど加熱することで水分を飛ばす方法です。この方法は焦げ付いたりしにくく、基本的に放置できるので、「ぜんぜん火が通らないのに強火にすると焦げ付きやすいドロドロを延々とかき混ぜ続ける」という苦行からは開放されます。

ただこれも、まだちょっとめんどうくさいです。一度に調理できる量が丼の大きさに規制されること、端のほうが乾いちゃうこと、ときどき混ぜるなどしようとすると、丼も熱々になってるので案外手間がかかります。

それで今週は、薄い輪切りにしたタマネギをそのまま油に突っ込み、弱火数十分放置で素揚げにしてみました。揚がったタマネギはなかなかきれいな飴色の物体に仕上がり、弱火なのでちょっと焦げたところも焦げくさくありません。

これを他の野菜(人参、大蒜、生姜)とともにミキサーに掛けると、おおむね均一の野菜ペーストができあがりました。

あとはこれを鍋に入れ、安いぶつ切りの鶏とトマト缶(ダイスカット)を加え、さらに全体と同量の水を注いで混ぜ、コリアンダーシード、クミン、ターメリック、胡椒、唐辛子類を入れて火にかけます。

半分に煮詰まったら、塩で味を整えて出来上がりです。

皿に盛ってから、シナモン、カルダモン、ナツメグクローブ等の「甘い」スパイスを振り掛けて出しましょう。うちではこのへんのスパイスを混ぜたものを仕上げ粉として冷蔵庫に常備してあります。

なかなかおいしいですよ。

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できあがり

 

サンドボックスの中で思考実験をやるのがSF、物語をやるのが異世界転生モノ

なんか見た。https://www.comic-earthstar.jp/detail/sumou/ おもしろいねー。

いま本屋で、軽い読み物(マンガやラノベ)のコーナーに行くと、転生モノは「一大ジャンルを築いた」と言うより、むしろ「デフォルトが転生モノ」くらいの勢いで隆盛してる。

この現象も、オレにはネットによる可視化の副作用のひとつであるように見える。ネットが現実世界の隠れた貧困を、専門家の視点を、地方と都会の対比を、それぞれの立場の人たちの生の声によりリアルに可視化した現代とは、すなわち世の中の複雑さが全部見えてる時代である。こうした現実が突きつけられた上で、書き手が神の視点を持って物語を操るのは物理的にも不可能に近い。どこかに必ず瑕疵があり、それは必ず指摘され、後知恵により作家にも理解可能である。

異世界モノはこの簡単な解である。転生異世界というサンドボックスの中に押し込めて話を作れば、リアリティの問題は生じない。多くの物語が「ゲームの世界に転生しました」という体を取っているのも、より狭いサンドボックスを求めてのことだろう。物語には話を作れるだけの複雑さを持った世界があればいいのだ。

今起きてるのは「作家の "お話の舞台としての現実" 離れ」ということだ。

ヒトという種の弱さを知ってテキトーに

ヒトの脳はあまり合理的ではありません。論理を積まずに直感で判断すると、大事なことを簡単に間違えるようにできてます。この種の「合理的判断からの逸脱」のうち、誰でも同じ方向に間違えるものをヒトの認知バイアスと言います。見たり聞いたりしたものの受け取り方の偏り、という意味です。

自然は合理的に動いてるのに、ヒトの脳が自然を偏った形で受け取るのは、まず第一に、生物というものが偏った存在であるからです。

生物進化とは生存した者の持つ性質を残すだけの篩であり、合理的判断よりは生存のための短絡回路を持つ者が残ります(短絡回路が「進化」しやすい)。怖いものを見たら全力で逃げたくなり、逃げられなくなったら反撃したくなる、というよく知られた心理はこの例です。

第二には、ヒトは自然環境ではなく人間社会の環境で生きていることがあります。この「人間社会」とは現代の億単位の相互作用するヒトで構成される現代社会ではなく、長く長く続いた旧石器時代の最大人口150人レベルの村のことです。

こうした人間社会に(というか、それを反映したヒトの心の中に)だけ存在し、自然環境には存在しないものが実はたくさんあります。たとえば「絶対」というのはヒト特有のバイアスで、絶対的な神を信じて戦うとか、敵対者を絶対的な悪と思い込むようなことを、他の生物はしません。

現代社会の問題の多くは、文明の発達によって、つまり、ヒトが増殖し、交通が発達し、情報が高速高密度で伝達され、共通性が認識されることによって、バイアスよりも合理性の方がずっと利益が大きく満足度も高い状況になっているにもかかわらず、「自然に」振る舞うことでバイアスに支配された行動を取ってしまうことから生じています。

この弊害は最近とみに顕著で、特に震災からこのかたの日本で、軋轢が非常に大きくなっているように感じます。つまり、「自然に」「本音で」生きてきた人たちと、「科学的に」「建前を大事にして」生きてきた人たちの対立が深まっていることが観察されます。

ここで興味深いのは、前者のいわば「自然派」の方が、はるかに不合理な認識を持ち、常に間違うため充足することもなく、閉じた生き方をしがちであることです。自分の感じた通りに生きたい、幸福への希求が強い人だからこそ、間違い放題に間違わされて不幸になるのです。

こんな環境で、本当に幸福な人というのは生じうるのでしょうか。

オレは自然派であるが故に科学を志向するというタイプですが、科学を志向し知識を蓄積し行動を変えていくことで得られる納得や満足感は大きいものの、本当に自分の望んでいるようにやっているのか、という疑問と軋轢は常に自分の内側に存在します。心を開放すると変なことをやらかすし、開放しないと納得がいかない。やらかしを責められるのは、あるいは責められそうに感じることは嫌である。でもその心配は杞憂かもしれない。

こうした二律背反の中を長いこと生きてきての今の所の結論は、「自分の歪みを認識することで、本当の望みを知ることができる」です。

自分の歪みの一部は多くは生物あるいはヒトであることに由来し、逃れようがないので、頭の中でそれらを足し引きするのです。21世紀になって脳のバイアスに対する知識がわかりやすく解説されるようになったので、それを知り自分の感じ方に適用するのがよいと感じています。以前紹介した池谷裕二さんの書籍なども良いですし、twitterbiasbotのフォローもオススメです。

自分の歪みがいかに逃れようのないものかを知っていくと、他者のバイアスもいくらか勘定に入れられるようになるので、いまそこで何が起きているかを見通しやすくなります。こうした心理に、他者を勝手に推し量る傲慢さを感じる方もいるかも知れませんが、自分の判断力の正確性は(唐突な話だけど)株を買ってみるとよくわかります。

話が脱線しましたが、オレがやらかしと開放のバランスを取って楽しく生きるために特に気をつけるべきだと思う、ヒトの認知の不完全性は次の3つです:

  • パーフェクトを目指す
  • 量の見積もりや比較が苦手
  • 相関と因果の混同

これらのバイアスをキャンセルするため、オレは逆のことを心がけています。これを「テキトーな生き方のための三カ条」とでも名付けましょうか:

  • いい加減で諦める
  • おおまかに数であらわす癖をつける
  • だいたいのことは偶然だと心得る

めちゃめちゃテキトーに生きているようで笑っちゃうけど、まあそれぞれ解説します。

いい加減で諦める

知識を掘るときは、根本のプリンシプルを絶対に外さないで、逆に細かいことはどうでもよいという態度を取ります。

パレートの法則を持ち出すまでもなく、ひとつのことをパーフェクトにするまで他のことに取り掛からないのは非常に不利です。特に、スキルの習得などゴールのない分野では、パーフェクトにこだわると永遠に次のことに取りかかれません。

逆に、どんな分野でも80点くらいならすぐに取れるものです。80点では役に立たないかもしれませんが、100点ではなく95点を目指しましょう。これは根本のプリンシプル+アルファくらいの知識です。

将棋で言えばアマ12級くらい。これは「小学校のクラスで1番」くらいにはなれるけど、本気でやってる人にはまったくかなわないくらいの実力です。

おおまかに数であらわす癖をつける

これは定量化の第一歩です。情報を量に変換し、自分の知ってる量と比べるのが目的であります。料理のレシピを材料に対する塩分と捉えるアプローチがあって新鮮に感じたことがあるが、量を率に、率を量に変換してみるのも、ざっくりとした、しかし本質的な理解を助けます。

これをやるときは、あまり精度を上げようとしない方がいいです。わかっている概算値を適当に当てはめて、桁違いになっていなければOKくらいの気分で進めます。そしてその状態を自分の見える景色に変換します。

たとえば、子どもの貧困率は13.5%と聞いたとしましょう。人口に対する割合は自分の小学校のクラスに当てはめるのが理解が速いです。「40人学級の13.5%は、えーと、12.5%が1/8だから5人ちょっとが相対的貧困という世界か…」と換算して、そのクラスの日常を思い浮かべます。

さらに、「うちの市の人口は10万くらいで子供の率をざっくり20%とすると2万の1/8くらいで2500人くらいは貧困家庭か」などと換算できたらサイコーです。どんなことでもそのように自分の実感可能な数に変換できるようになると、数字の実感的理解が速いです。(ちなみに沖縄県の子供貧困率は全国平均よりかなり高く30%程度なので、40人クラスで12人くらい、市内で6000人くらいになります。)

だいたいのことは偶然だと心得る

これは「OOのあとXXが起きたからOOはXXの原因」と考えず、「OOのあとXXが起きた、しかも3回続けて。でも偶然かもしれない」くらいの勢いで、物事の関係を偶然側に寄せて見ることです。

これは三カ条の中でも特に難しいやつです。なぜなら、現代生活で入ってくる情報は、そのほとんどが他人を通じてもたらされるものなので、必然的に情報をくれた人のバイアスが反映されるからです。

噂話は独り歩きするし、ニュースは事実だけを伝えないし、伝言ゲームは正確に伝えろと言ってるにも関わらず入力とまったく違ったものが出力されます。そして生物とは存在しない因果を勝手に類推するものであり、ランダムなタイミングで与えられた報酬にはランダムなジンクスを編み出します(スキナーの鳩)

入ってくる情報にバイアスが掛かった状態で、情報を貰ってる自分自身にもバイアスがあるのだから、現代人が世のすべての現象に因果を見出し、さまざまな陰謀論に染まりがちなのはむしろ当然のことです。

こうしたバイアスをカットする方法として、医薬品の治験では二重盲検法という手順が用いられます。治験では当該医薬品投与群とプラセボ投与群が比較されますが、このとき治験に参加した患者だけでなく、薬を投与する医師も、投与している薬が実際の治験薬なのかプラセボ薬なのかを知ることがないようになっています。医師のちょっとした態度などで患者が投与薬を知ることがないようにしてあるわけです。

自分に入ってくるさまざまな情報に二重盲検法を適用することは不可能ですが、それに近いことはできます。「XXによりOOが起きた」的なストーリーを見出したら、それがいかに当然のものに見えたとしても、実は偶然起きているという場合のストーリーを考えてみるのです。

「いくらなんでもXXの(あのバカ男の・外国勢力の・ワクチンの・昼間食った刺身の)せいだよね」と自然に思ったことに対しても、「実は単にOOの(自分の体の・自分の文化の・睡眠の・水分補給の)調子が悪かったから」というストーリーは立つものです。どちらが本当に近いかは誰にもわからないけど、どちらも100%確かなことではないはずです。

そうやって必然と偶然を相対化して見積もる癖を持つと、見えてくるものはいろいろあります。社会で起きてることだけでなく、自分の傾向も見えやすくなります。

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「テキトーな生き方」について長々書きましたが、これらは実際には意識的楽観だとか客体化だとかが必要な手順であり、ヒトの心には不自然な行動なので、あんがい難しいものです。

こうした抑制を外したくなったら、酒を飲んでクドクド絡むのではなく、絵を描いたり楽器を鳴らしたりプラモデルを作ったりして、心が求める完璧を与えてやるのが良いように思います。アートとは徹底的に心に沿ったものだからです。

ともあれ、テキトーに生きて行こうではありませんか。

COVID-19の治療薬って耐性株の心配が少ないはず

昨日見た記事。

www.asahi.com

SARS-COV-2の標的は細胞表面に提示されてるACE2タンパクです。ウィルス表面にあるトゲトゲ(スパイクタンパク)は、このACE2タンパクに結合するようになってる。この結合によってウイルスは細胞に取り付き、中身を注入して増殖する。

ファイザーやモデルナのmRNAワクチンは、このスパイクタンパクだけを体内で大量に合成し、それに対する抗体を誘導することでウィルスへの免疫を獲得する仕組み。

それに対して上記の薬品は、スパイクタンパクへの結合性がヒトACE2タンパクよりはるかに高くなっており、スパイクタンパクを飽和させることで細胞への取り付きを防ぐことで作用する。

そんで、これを紹介してた方が書いてたんだけど、

つまり、人工的なタンパクを使って飽和させてると、たまたまヒトACE2タンパクに少しばかり結合しやすい変異を持ったウィルスが存在したときに、そのウィルスばかりが増殖するので、逆にヤバいのではないか…という懸念です。たしかに当然考えられます。

ただ、昨日のやつを書いてて気がついたんだけど、このウィルスの変異って感染のごく初期に起きたものしか伝播しえない。なぜなら発症前後の数日間が感染の大部分を占め、隔離後の二次感染はほとんど起きてないから。

これは、たとえば治療薬がウイルスの遺伝子の変異を促すものであったとしても、その変異した系統が伝わる機会は少ないということ。すなわち、耐性株の出現はきわめて稀であることが期待できるのを示す。

もちろん医療がまともに機能しておらず、隔離なく重症語の二次感染出まくり…という場所があれば別です。

あれ? そういう場所でこそ、ワクチンよりも治療薬で解決しようとする場面が多い気がするな。予防医療は知識を必要とするものであり、自然な人間は調子悪くなるまで何も考えないものだから。もしかしたら結構ヤバいかも…。

とはいえ、SARS-COV-2では通常の感染症より耐性株が出にくいのも確かだと思います。上記の薬も、ちゃんと管理すれば重症化防止薬として十分使えると思う。

重症化形質が中立に近いことで、弱毒化しにくくなってることと裏腹に、こうした性質が導き出される(机上では、だけど)のはおもしろいです。

ウィルスこわい(進化生物学的に)

COVID-19の恐ろしさにはいろんな要素があるんだけど、進化生物学者から見て非常にデカいものの1つは、「感染を主に発症前後の数日間に起こすため、症状の重さが選択的に中立に近い」です。

つまりこのウィルスは、感染症の常識的進化パターンといわれる「感染力が上がりながら症状が軽くなっていく」に合致しにくいと思われるのだ。

通常の感染症の病原体が、感染力を上げながら症状が和らいでいく(弱毒化する)のは、症状が軽くなることが、感染力の増大につながるからだ。

感染力は「一人の感染者が感染させる人数の平均値」である。つまりこれは、感染様態やウィルス量だけでなく、感染期間の長さと感染者の行動によっても規定されている数字だ。症状が軽くなることで病原体を排出する感染者が動き回れるようになり、病原体を撒き散らすことが「感染性の高さ」の一部になっているわけだ。

どんな形であれ「感染力が強い株」は広まる。

つまり、本質的には感染力が強くなることだけが自然選択にかかる形質であり、症状が軽いことは、この感染力を強める間接的なパラメータ(行動できる感染者数やその元気さ)でしかない。「症状が軽くなる」は、本質的な自然選択形質ではないのだ。

それではなぜCOVID-19は弱毒化しないのだろう。

COVID-19の場合、無症状の期間に4割、発症後に6割の感染が起きるとされているのに対し、重症化は発症後1週間あたりから起きる。これは重症化がウィルス単独の作用ではなく、免疫系の暴走に伴って起きることだからだ。

重症化や死亡が起きるときには感染させるイベントは終わってるから、ウィルスにとっては、重症化はべつにぜんぜん必須なものではない。彼らに悪意はない。

しかし通常の感染症のように、「重症化させる」という性質が短期間に淘汰され、「感染力が上がりながら症状が軽くなっていく」が起きるためには、「重症化させないことによってより速く広がる変異株」が従来株に勝利する必要がある。

ところが、COVID-19にはそんな変異株は存在しない。なぜなら「重症化させないことで速く広がる」ようにはなってないからだ。これが上の「症状の重さが選択的に中立に近い」の意味である。

中立化するなら減るんじゃないの? と思う方もいるかもしれない。みなさんの常識には、自然選択的に中立になった機能は衰えていくものだ、というのがあるだろうから。たとえば洞窟で世代を重ねた生物が白くなるのは、カモフラージュに効いていた色素を発現させる酵素チェーンの一部が壊れて色を失うからである、という説明を知っているのではないか。

しかし、洞窟で色を失う突然変異が保存されるのは、突然変異が起きた個体が起きいてない個体に比べて生存上不利になることがないからにすぎない。色素を失ったほうが有利ということも普通はなく、色素持ちと色素なしのどちらの遺伝子の方が優占的になるかは、ほとんど偶然による。

洞窟の生物たちが時間の経過により必ず色素を失うように見えるのは、個体群規模がきわめて小さいために、優占的な遺伝子がコロコロ変わりやすいこと(「サイコロを振ったらすべて1だった」の期待値は、振ったサイコロが3個なら1/216だが、1個なら1/6だ)、そして一度の突然変異で広まらなくても、何度でも広まるチャンスがあるということがあるためだ。

SARS-COV-2ウィルスには、これは当てはまらない。

まずこのウィルスはコピー数が多い。感染者一人の持つウィルス数だけを取っても、すでに洞窟生物群集全体よりはるかに(たぶん何桁も)大規模である。このため突然変異(コピーミス)が起きたとしても広がりにくいのだ。そして個体の中で広がった突然変異は次の感染者に伝えられなければならない。そうでなければ患者の治癒をもって消滅する。この伝達の機会が感染初期に限られていることから、COVID-19の変異株の発生する確率は非常に低い。

  • 感染のごく初期に発生し
  • 他への感染が成立した

突然変異のみが保存されうる。

そしてこの突然変異が世界のCOVID-19個体群全体に広まるには、感染性が強い必要がある。進化的に中立な性質など広まる余地がないのだ。

COVID-19の重症化が進化的に中立であるということを、イコール、洞窟生物の色素のように衰えやすい性質である、と考えることが適切ではないのはこのためである。

実際に、地理的な壁を超えて世界中に広まることができている変異株はもれなく「より強い感染力」を持っている。元々のSARS-COV-2は基本再生算数R0が2.5と言われていたが、アルファ株のR0は3.75、デルタ株に至っては5程度だという。

そしてこれまでの常識に反し、アルファ株もデルタ株も以前の株より重症化しやすくなっている。デルタ株に至っては、アルファ株の2倍程度の入院リスクだという。

この2つが同時に起きることは「ウィルス量の増大」で説明がつくのだ。何の矛盾もない。COVID-19に関しては、弱毒化は必然ではない、ということだ。

いまのところ、感染症学者含め、みんなこれまでのウィルスと同様に考えているように見える。「いずれはウィルスも大人しくなり集団免疫も成立して『普通の風邪』になる」と思っているようだ。

しかし、このような機序で進化するウィルスの場合、「感染性とともに重症化率が上がっていく」という恐ろしいシナリオも考える必要があると思う。この場合の対策は? ワクチンが打てない人をどうやって守るの? ワクチンはいつまで効くの? 病棟は? もしやどんどん足りなくなるの?

みなさんどう思いますか。