変化を受け入れるくらいなら死んでやるというわれわれの心を野放しに

しておいていいのか。(ここまでタイトル)



今日は小学校の読み聞かせボランティアに行ってきた。慰霊の日の1週間前なので平和に関するものを読めとの指定があったので、6年生に向け、沖縄戦の流れを説明しながら『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』の一部を読むことにした。米軍が血みどろで戦い、キャラの立った人がすぐに死ぬこの辛いドキュメンタリーを、さらに蹂躙されていく日本側の視点を混じえながら読んだ。


読んだ後、他のボランティアの方々(多くは沖縄の普通の主婦)とお喋りしたところ、沖縄戦の悲惨さはよく知っていながら、それがなぜ、どのように、どんな背景で起きたか、ほとんど知らない方が多いことがわかった。なぜアメリカが沖縄に来たかすら、多くの方は知らないのである。


それで、自分の知ってる限りのことを、なるべく全体像が分かるように話してみた。日本がなぜアメリカと戦争になったか、それはどの程度避けられなかったのか、その前段階ではどのようなことが起きていたか。そうした大きな背景については加藤陽子戦争まで』の知識により、また、なぜ沖縄に来たかについては、日本の戦争上の動機や軍の展開状況、米軍の島伝いの北上、基地確保といった視点から解説した。


沖縄戦そのものの経緯も、みなさんびっくりするほど知らなかった。南部でひどいことが起きたのは知ってるし、ここ宜野湾市のあたりが激戦地であったことも知っているのに、激戦と南部の悲劇がどのように繋がっているのかはわからないという。宜野「湾」全体に上陸したんですよ、と言ったところ、ああ、それでみんな南部に行ったの、と初めてわかるのだ。


島の中央部に上陸されて南北に分断され、首里に向けて攻められた沖縄戦ではあるが、実はこれは日本側の守備部隊、大日本帝国陸軍第32軍の防衛計画に近い線の推移だ。宜野湾から与那原、首里にかけての小高い丘は、すべて残らず要塞化されており、日本軍はごくわずかながら望みのあるいくさを組織的に戦っていた。


問題は、首里まで兵を進められ、ゲームオーバーになってからである。


準備のできている場所で、日本軍としては例外的なほど充実した砲兵戦力を背景に、それでも圧倒的な米軍に対して2ヶ月間の徹底的な抵抗をおこなった結果、兵力は損耗し、防御陣は奪われ、城下に敵を見て、これ以上はどうやったって勝つ望みがない。という状態になったのが首里が落ちようとする5月下旬である。


しかし日本軍は降伏を選ばなかった。南部に撤退し、不十分な陣地に籠り、蹂躙され殺されるという義務を果たすかのように、部隊は全滅していった。さらに米軍が島の最南端まで侵攻し、戦闘能力をほとんど喪失しても、それでも日本軍は降伏だけはせずに逃げ回ることを選んだのだ。住民を強制的に巻き込んで。


南部への撤退とその後の嫌がらせのような行動は、本土決戦のために時間を稼ぐという名目をもっていたが、大本営に本土決戦での勝利のビジョンがあるわけではもちろんない。援軍が来ることもありえない。南部への撤退そのものが、ただの決断の先延ばしであり、犠牲者は完全な無駄死にだった。そして、住民の犠牲者のきわめて多くが、この南部の戦闘で出ているのだ。


慰霊の日が6月23日である根拠は、この日に日本軍の組織的抵抗が完全に不可能になり、総司令官牛島満中将が自決したことにある。しかし前述したように、きちんと準備された意味のある抵抗は、首里撤退の時点で終わっている。6月23日以前も以後も、互いに連絡のつかない日本軍は、虱潰しに殺されていただけだ。6月23日以前には拠点らしい拠点がまだ存在していた、というだけのことである。


逃げ回りと掃討の戦闘は8月15日を超え、9月まで続いたが、これは32軍司令部が正式な降伏をおこなわないまま、抵抗せよという命令を生かしたままで勝手に自決・消滅してしまったからである。末端は命令違反・軍法会議・死刑を避けるためには戦い続けるよりしかたがない。そして米軍は掃討を続けるよりしかたがない。


抵抗する能力があるわけでもなく逃げ回り、掃討戦にかかれば死に、生き続けるうちは現地で「自活」するというパターンは南方でも繰り返されていたことだが(『虜人日記』などに詳しい)、これはその戦闘地域にとてつもない負担を与える。土地の収容能力をはるかに越えて、大人の男が大量に導入されるのだから当然のことだ。


こうした負担を防ぐという視点で見れば、たとえ現地司令部が全滅しても、残った者を降伏・解放させる能力と義務が大本営にはあるはずである。しかし「全滅」した部隊を、軍は顧みない。というか、無視し、忘却しようとする。そしてこれを「日本国民」の住む地域でおこなったのが沖縄戦なのである。


戦闘の無責任な推移を見ても、またこうした無責任な放棄をみても、「沖縄は捨てられた」という一見感情的な物言いは、単なる事実でしかない。第32軍は5月に正式に降伏すべきだったし、そうであれば、沖縄の人が現在に至るまで強烈な不信感を持ち、何かあるたびにこれほどまでに怒り続ける、といったことはなかっただろう。


本当のことを言えば、捨てられたのは沖縄だけではない。そもそも昭和19年サイパン失陥で、日本には何の望みもなくなっていた。石油を依存する南方への海路が断たれ、本州全域が爆撃機の行動圏に入れられ、台湾や中国大陸との連絡も危ないという状態で、どうやって継戦しようというのか。


後知恵で見れば明らかであるが、また当時の近衛公の日記などを見ても明らかであったようだが、この時点で日本は降伏すべきだったのである。爆撃による死者、南方の餓死者、満州引き上げの死者など、日本の太平洋戦争での犠牲者の過半は、これより後に出ているのだ。


もちろん、そもそも論を言えば、アメリカと戦って勝てるはずがない。しかし開戦時には国民の大部分が大いに喜び、これに賛成していたことが当時のものを読むとわかる。だから日米開戦を国民の意思だと考えることは可能ではあるのだ。しかしそうであったとしても、絶対に勝つ望み無く虐殺されるだけの前途が決まった時点で、それを望んでいたものがあるだろうか。


昭和19年夏以降の犠牲者は、その全員が国のトップの無責任な先延ばしによる被害者であるといってよい。我々は細かいところだけを見つめて全体を見ることを拒否し、出さなくてもいい犠牲を出しやすい国民性を持っているが、そのような「自然な」「自由な」甘いやり方を、はたして指導者層にまで許してよいものであろうか。


国民が感情的で愚かな判断をすることは世界の歴史を見れば少なくない。というか、ごく普通の、あたりまえのことである。しかし、近代以降の西欧文明型議会制民主主義国で、それを指導者層にまで許している「おもんばかり」の「オカミの顔色をうかがう」「死ぬまで付き合う」国民が、日本人以外にあるだろうか。


自分たちがどのような社会的志向性を持ち、それがどのような危険を持っているのかということについて、われわれは常に個人的に注意し、自分の目が歪んでいないか、よく気を付けておく必要がある。「心からの判断」が、社会により、空気によって曲げられている状態を看過することは、われわれの人間としての矜持を、著しく傷つけるからである。

日本の国民性は知識の体系を拒絶する

レッドブルエアレースが開催されているようで、東京湾岸をゼロ戦が飛んでた!という話があちこちから聞こえる。あれはP&W WASPを積んでてオリジナルの栄エンジンではないという会話もある。実のところ、栄はWASPから発達したエンジンであり、日本人は自分で作ってみながら足したり引いたりしただけである。


日本のオリジナル技術です! とかいうものは、はるか後の時代になっても、「海外の研究が得た原理を使い、自分らで製造できるようになり、自分らで発達させた部分が大きくなったからオリジナルと言い張ったもの」がすごく多い。海外の技術だってそうではないかと言えば言えるのだけど、原理から現在の技術までのつながりがどれだけ可視化(公開)されており、学ぶことができるようになっているかという点で大差がある。日本にオリジナルの研究がないわけではまったくないが、オリジナリティは単発的に生じるのみで、体系化ということを知らないのだ。


小松真一『虜人日記(http://amzn.to/2qNTXET)』に「日本人が米人に比べ優れている点」という文章がある。(2004. ちくま学芸文庫 pp. 336-338)

長いストッケード生活を通じ、日本人の欠点ばかり目につきだした。総力戦で負けても米人より何か優れている点はないかと考えてみた。面、体格、皆だめだ。ただ、計算能力、暗算能力、手先の器用さは優れていて彼らの遠く及ばないところだ。他には勘が良いこともあるが、これだけで戦争に勝つのは無理だろう。日本の技術が優れていると言われていたが、これを検討してみると、製品の歩留まりを上げるとか、物を精製する技術に優れたものもあったようだが、米国では資源が豊富なので製品の歩留まりなど悪くても大勢に影響なく、為に米国技術者はその面に精力を使わず、新しい研究に力を入れていた。ただ技術の一断面を見ると日本が優れていると思うことがあるが、総体的に見れば彼らの方が優れている。日本人は、ただ一部分の優秀に酔って日本の技術は世界一だと思い上がっていただけなのだ。小利口者は大局を見誤るの例そのままだ。


このへんを読んでいると、ジャパン・アズ・ナンバーワンでうかれてた80年代もけっきょく一緒だったよなあ、と思う。日本の半導体企業はDRAMの歩留まりを上げる技術一本槍でアメリカ企業をほとんど全滅させたけど、強固な技術体系の根が残って新しいものが生え、けっきょくこちらが全滅することになった。


日本にオリジナルなものがないということはまったくない。本質的なオリジナリティがなければどうにもならない数学分野に世界レベルの凄い人が伝統的にたくさんいるくらいである。ただ、点で生まれるオリジナルな発想を体系化して線にし、誰でも使えるようにしてから面で発展させる。ということが本当にできない。江戸時代などを見ても、和算関孝和などに真のオリジナルな発想があって、これは西洋の数学に比べてもXX年進んでいた、みたいなことを言われることがあるけど、単発で終わって、現代数学に関の痕跡など残されていない。


基本的に日本の社会には、庶民から為政者まで、「その場の正解」にのみ拘泥して知識体系を軽蔑するところがある。専門家を軽視し、髪型だの所作の奇矯さだののくだらない揚げ足取りに終始し、その専門性に正面から向かい合うことができない。向かい合わないから尊重すらできない。尊重し、言うことに耳を傾け、制度を動かすといったことができなければ、本人が去ることですべては崩れ去る。システムで戦うことはできず、世代が替われば一からやり直しになる。これが日本社会の属人性といわれるものの正体である。


人間を自由にしていけば必然的にたどり着く個人主義というものを前提に、制度を家のように作り上げ、その中に住む。自由な発想で全力を出せば、それが全体の力になる。これがルネッサンス以来の世界の文明の方向性であり、人類は実際にそのように発達してきた。基本的に、システムが個人をサポートすることばかり考えてるといっていい。それ以外の方法は、なにより個人個人の支持が得られないことにより、廃滅しつつあるのだ。


実のところ、自由競争を長いことやっておれば、人間はこの「知の自由競争」の発想にたどりつかざるをえない。中国のような国ですら、草の根から「科学化」しつつあるのはこのためである。日本がそうならなかったのは、上記のような国民性を別にして経済的な力関係という直接的な原因から見れば、おそらく規制産業が圧倒的に強力なままだったからである。中国は発展のために役人支配を緩めたが、日本は緩めなかったというか、現在に至るまで単調増加でそれを強めつつある。その罪深さを感じざるをえない。


自分たちの文化から、科学のような「体系を生み出す体系」を発明できていれば、あるいはこんなにこじらすことはなかったかもしれない。しかしながら、この体系、すなわち科学という方法論は、けっきょく世界中で西欧文明の切磋琢磨でしか生まれなかったものである。そしてまた同時に科学というプロセスは、すなわち、記録し、自由に討論し、人間ではなく知識を磨き上げていくという発想は、誰が考えても同じような形に落ち着くように思う。コロンブスの卵みたいなもので、考え付けなかったからといって恥じることはない。取り入れさえすればいいのだ。


こうした体系を学ぶことを拒否し、個人の技芸に頼り、「自然な発想で統治」とかしてる我々は、方法論的に原始人となんら変わるところがない。長い不況の出口は科学化の方向にあったが、それがどうしても見えず、というか本気では探さずに、いまや昔の局所最適に戻すことで生きのびようとしている。


この国にはこの先にも希望がないのだ。

北斎

ジャン・カルロ・カルツァの『北斎』( http://amzn.to/2nMnRYR)を買ってきて読んだのでレビューを書きました。以下に転載。

北斎の全貌を知りたい人の基本書

葛飾北斎の研究は日本のほか、フランスをはじめとする欧州各国でも進められています。

英国の研究者の書籍を資料的に翻訳する際に北斎を扱った書籍を漁って回ったのですが、日本で出版されている北斎本の大部分は以下のように分類されるようです。

・有名な絵を表に出し、ちょっとした逸話を並べた

・または有名な絵を、世評を軸にテーマごとに切り取ったいわゆる「入門」書
北斎という存在に対する海外からの解釈の紹介
北斎漫画の分類と索引
・江戸風俗に絡めた独自解釈本

北斎に棚を一段以上割いている大型書店でも、書棚のほとんどがこのような書籍でした。困ったことに、

・わかっている仕事や行動を記述し、作品も見ることができる伝記型の基本書

というものは皆無なのです。

ただし本書を除いて。

この本はまさに時系列に北斎の人生を追っていくことができ、作品を追っていくことができ、それぞれに対する解説を読むことができるという基本書です。書いているのは研究者であり、根拠の乏しい解釈やけれん味も排除されてます。

図版は大きいし、手紙から見る当時の生活の様子などの研究も寄稿されており、多面的に捉えることもできます。

別冊太陽のムック「決定版」や、ソフィア文庫の大久保純一氏の仕事など、他にも読む価値のある本もなくはないのですが、どれも記述の省略、図版の不足、小ささなどが目につき、逆にこの本に載っていることで落ちているものというのが少なく、この本のサブセットだと感じました。

出版社がマイナーで図書館にもあまり入っていないようなので(沖縄県では皆無でした)、その意味でも手元に置く価値があると思います。

1万円は絶対的には高価ではありますが、大判のハードカバーでカラー500ページほどの分量があり、まともな研究者によるちゃんとした本であることまで考えると、1000円や2000円の本を何十冊も買うより価値があり、むしろお買い得だと感じました。

北斎の全貌をある程度の正確さで把握しようとすると、おそらくこれが最低限の分量になるのではないかと思われるのです。

ピザ窯改修&試運転は大成功

近所の小学校の読み聞かせボランティアをやってるんですが、今季の最終日、お疲れ様会とかやりたいねー、ひさびさに鴨澤さんちのピザが食べたいよね〜、と言われました。そういうのは断らないことにしているので、その場で日にちと時間を決定。24日の金曜に開催しました。

うちのピザ窯は性能がイマイチなため薪の消費が強烈で、薪割りに疲れてここ1年半ほど使ってません。レンガの間を埋めた土は雨で流れ、草まで生えてます。薪も丸太のまま積んである。

それでこの際に、前から気になってた窯口を作り直してぐっと低くし、でこぼこになってた窯床も平らに直し、ガタガタの本体もある程度組み直しました。作業は泥縄式に前日の夕方に。すべてが終わって家に入ると23時ちょっと前でした。

翌日朝から火を入れてみると、窯口を下げたのがやはり良かったようで、性能がかなり上がりました。レンガの隙間を埋めてた泥はあんまり乾いてなかったんですが、午前中しか来られないと言ってた方が来なかったため、昼にはよく乾いて余熱も十分になりました。

けっきょく集まりはじめたのは午後2時をすぎてからで、10名で8枚のピザを食べました。

注意 これは写真で自慢する記事です。みせびらかしますよ〜。


1枚目 マルゲリータによるテストピース
これが


こうなる。



窯に入れてすぐ周縁部が膨らみ始め、チーズがぐつぐつ言い出した。よし!
でもまだちょっとばかり火力が低く、小さいのに焼きあがるまで5分近くかかりました。


2枚目 吊るしベーコンとアスパラが長いピザ
火力をさらに上げて、ここから本番です。まずはベーコンとアスパラをどかんと載せます。

こうなる。

アスパラさいこー!!



3枚目 キノコとバジルのピザ

焼き上がり図が無いんですが、差し入れで頂いたバジルをあとからたくさん載せました。生モツァレラと組み合わせたんで、マルゲリータのキノコのせ、と言ってもいいかも。


4枚目 海鮮ピザ


窯の熱量がありすぎると表面だけ焼けたりするのではないかと思ったけどそんなことはなく、でかいホタテもすぐにおいしくなりました。


5枚目 マッシュルーム、生モッツァレラ、サラダ菜、生ハムのサラダピザ
これは最初にベースを焼きまして

こうなったところに

生野菜をどさっ!生ハムぱぱぱぱっ!




6枚目 マッシュルーム、エリンギ、しめじ、えのきのきのこピザ
焼きが素早いとキノコの味が濃い! いままで食べてたキノコピザは何だったんだというレベル。



7枚目 海鮮バルサミコかけ


エビと鮭はケッパーがよく合うんだけど、その方向でちょっと酸味を強化。すっきりした味わいで香りも良い。



8枚目 クワトロフロマッジオ

生モッツァレラ、ゴーダ&モッツァレラ、ダニッシュブルー、スブリンツ(スイス)、パルミジャーノ。ブルーチーズ多め、スブリンツ入りというのがめちゃめちゃうまかった原因だと思います。
5種のチーズが入ってるのでクワトロじゃなくてチンクエ・フォルマッジオ。
普通のオーブンだと、チーズを山ほど入れると中のほうまで火が通りにくく、生のままで食べるのと変わらない部分があったりするんだけど、これは完璧でした。もうお腹いっぱいだと思ってたのに一番うまいと思ったのがこの1枚です。

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新窯は熱持ちがよく、熾火でちょっと置いておいても、追加した薪に炎が上がれば準備完了。具をたくさん載せたピザでも5分以内に焼きあがりました。薪の本数もあまり使わずに済んだので、これからはかなり気軽に運用できそうです。

音声入力による知的格差の縮小

車で帰ってくる15分ほどの間に原稿用紙数枚分のテキストを入力する。これはこれまでの方法では全く不可能なことである。

世の中にはさまざまな格差があるが、そのひとつに大都市と地方での知的生産環境格差がある。都会では通勤時間が読書の時間になるのに対し、地方では通勤時には自分で車を運転するために知的インプットがない。ちょっとしたメールに答える程度の知的生産も不可能である。

知的集積そのものにもともと大きな格差が存在するのに、こんな「スキマ時間」の利用についても差があるのでは、地方で知的産業に従事することはそれだけで不利ではないか。

ところが音声入力において、この格差は逆転する。

読書という、いわば材料集めにすぎない作業しかできない都会に対し、運転しながらの音声入力は超高速の知的生産である。運転中や歩行中は、アイディアがうかびやすい。欧陽脩の三上(枕上、厠上、馬上)のうちの馬上であり、ここで浮かぶことを確実にキャプチャーしてアイディアメモをどんどん作ることができれば、通勤中にいつもより高効率で仕事をしているようなものだから、田舎の方が知的生産性が高くなる。現状、都会では電車の中で音声入力をするわけにはいかないからだ。

他の格差も縮小または逆転する。たとえば年齢的な知的生産性格差がある。

キーボードでの文章入力は目に強い負担がかかるのに対し、音声入力で文章を入力すれば、その間は目を休めることすらできるからだ。

なぜ目の負担が年齢的な知的生産性格差につながるかといえば、中年期以降は目の疲れが知的生産のボトルネックになるからだ。

現代の老化がもっとも早く来る部分は目である。中年期以降のすべての活動は老眼により制限されている。同年代の友人たちを観察すると、みんな生活の端々で目をいたわっており、なるべく使わないようにしている様子が見て取れる。若い人にはわかりにくいが、知的活動の身体的なボトルネックは、まず目に来るのである。

文章が生まれるところを注視し、気に入らない変換などがあれば即座に直し、全体の構成を考えながら文章を書いていく。これは目を酷使する作業なのである。

音声入力にはこの負担がない。まともな文章を入力しようとしていないからだ。入力が高速すぎ、エラーレートが高すぎ、また編集に手間がかかりすぎるために、入力中に文章の体裁を考えることを放棄してしまうからだ。放棄「できる」と言ってもよい。(文章を書きながら体裁を考えるということを放棄すると、内容にのみ集中することができる。個人的にはこれによる生産性向上も顕著に感じている。)

こうして目の負担が取り除かれてみると、中年期の知的生産性は非常に高い。自分が諦めていたことすら意識していなかったものが取り戻されて、いくらでも書けるようになるのである。

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格差の縮小という点で考えると、知的アウトプットだけでなくインプット、つまり読書の方でも音声出力がもっと普及してほしい。運転が必要な地方在住者と中年は、目を使わずに情報をインプットしたい、という点で問題を共有している。

自分が使っている電子書籍リーダーの中で、日本語読み上げ機能のついたものはひとつもない。英語読み上げが可能なのはKindle Keyboardと、AndroidのPocketBookというアプリである。これらのおかげで英語の文書は歩きながら読むことができるが、日本語は無理だ。

実はAndroidのTalkBackというユーザー補助機能を使えばKindleの日本語電子書籍は読み上げることができる。詳しくは キンドル(Kindle)音声読み上げアプリ(音読朗読)が秀逸【Androidアンドロイドやり方】 - ミニマリストのび太の無印良品大好きブログ」を見てほしいが、弱視者向けの機能をむりやり使って文字を読ませるのだ。

しかしこの方法はデリケートだ。1画面を超えて読み続けてくれるのはバグのようなものであり、現代のアプリに当たり前のもてなしはない。何か操作をしたり、スマホの状況が少しでも変われば、それが音声で通知されるために読み上げが停止して自動再開しないし、自分の端末では画面も点灯したままである。画面オフで読み上げ、読み上げながら音量を調整し、寝落ち用に一定時間で停止する、といった「普通の」機能はないのだ。この方も偶然理想的な設定になったスマホを読み上げ専用機として使っているとのことである。

現在のAndroidの音声入出力は非常に中途半端で、ディスプレイによる確認がしょっちゅう必要になる。経験的に、人間の側には画面を見て指先で操作するモードと、音声入出力で作業するモードが別々に存在する。音声で文章を入力しているときは画面なんか見たくない。頭の中で文章を組み立てているので、視覚資源がそちらに割かれている感覚がある。Androidの音声入力は、しょっちゅう勝手に切れるし、操作も確認も画面で求めてくる。この割り込みが非常に煩わしいのだ。運転中は危険でもある。

そういうことでなしに、完全に音声での入出力を前提に、メモ取りや読書ができるようになればいいと思う。アメリカは運転文化でオーディオブックがもともと充実しているが、これを背景に開発されたAmazonのAlexaはディスプレイが存在しないがために音声インターフェイスが非常に充実しており、サードパーティの対応製品が山ほど出て、すでにほとんどデファクトスタンダードになっているそうである(Amazon Echo、年内に日本上陸か?! | gori.me(ゴリミー))。家の中でEcho端末に話しかけることでクルマを始動したりできるのだ。すばらしい…。

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目を使わないことが格差を縮小する。これはパラダイムシフトであり、元には戻らないと感じている。

いま現在、この文章を仕上げているのは大きな画面のPCだ。音声入力した素材の編集をしつつ、新しい文章をキーボード入力でどんどん付け加えているのだが、書いたものを一覧するにはやはり視覚を使わざるを得ないというか、これは視覚のほうがずっと向いた作業である。

それでも「読み書き」という基本的な知的活動において音声に強い期待をする意識が、自分の中には完全に根を張り、それなりの場所を占めた。音声入出力の「楽さ」「快適さ」は自由をもたらすのだ。

音声入力のはじめ方

野口悠紀雄が音声入力で本を書いていると知って、自分が一番知りたかったのは、どのようなアプリケーションを使っているか、だった。

ところがスマホでの音声入力には、特定のアプリ、例えば専用のエディタなどは必要がなかった。Androidであれば、Google音声入力を使うだけでよい。これはキーボード扱いになっているのだ。もしかしたら何かインストールする必要があるのかもしれないが、自分のスマートフォンにはいつの間にか入っていたものである。Google日本語入力の右上のマイクボタンで起動し、喋ればそのままテキストとして入力される。

音声入力が一番便利なのはクルマの運転中や道を歩いているときだ。これは欧陽脩の三上のうちの「馬上」にあたり、もともといろいろ思いついたり思考が進んだりするものではあったが、これまではメモに手間がかかるためにキャプチャがおろそかになりがちだった。音声入力では、それが非常に手軽になる。

最近は運転席に座ると、Evernoteの新規ノートを開き、メモの準備をしておく。音声入力ボタンを押せばすぐにアイディアがキャプチャできる。

当初この運転中のメモ取りは、いつでも"OK Google"が使えるようにスマホを電源に繋いだうえで、何か思いついてから"OK, Google、XXXとメモ」とコマンドを送り、音声操作だけでメモを取ろうとしていた。ところがOK Googleを音声入力のコマンドインターフェイスとして使うのは結構難しく、よく入力が無駄になったり(「XXX」を検索される)、うまくメモ入力に入ることができているか不安でスマホに目が行ったりするので、安全性が損なわれる感じがあった。メモは大事なので、最初から用意しておくのがインフラとして重要だ。

音声入力した素材はEvernoteのノートとなっているので、PC側でシームレスに編集することができる。どのプラットフォームで、どのソフトを使って編集するべきかはまだ確立してないが、どのハードウェアを使って編集するかは確立している。4K縦画面のMac miniである。

音声入力していると思考の断片という「素材」が膨大に蓄積されるので、ポストイットの並べ替えで文章を構成するように、広い画面で文を並べ替え、繋いでいく。これには一覧性が絶対的に重要で、4Kモニタを導入しておおむね満足しているが、もっと字が見やすくなるように、画面も大きくしたいと思っている(28インチは足りない)。

音声入力内容はそのまま使えるわけではない。まず第一に句読点がないし、カッコ、カギカッコ等もない。喋るのをやめると半角スペースを入れられてしまう仕様があり、余分なスペースもたくさん入っているので、句読点を足しながらこれらを除いていく。

こうして作った文章は、これまでの自分の文章と文体が少し違って違和感もあるのだが、まずはその圧倒的なスピード感に慣れようとしているところである。

音声入力はかなり革命的

スマホで音声入力してみたら物凄く便利であることがわかった。

入力の速さ、変換の「わりにマトモ」さ、開始のハードルの低さなどが、いつのまにか実用に達していた。もうオレは基本を音声入力にしたい感じ。

翻訳家とかやっていると、PCで文章を書くのは普通の作業で、長文短文なんでもとにかくたくさん書く。手書きよりキーボードのほうがはるかに速くて、ああパソコンのある時代に生まれてよかったなと思う。

ところが音声入力はキーボードの10倍くらい速い。

これは考えてることの断片をすくい上げよう、という需要を非常によく満たすもので、考えたこと、感じたことを素早く拾うことができる。

録音メモというのはこれまでもあったけど、録音ファイルは内容をブラウズすることもできず、検索もかからない。これに対して音声入力は、喋った内容がそのままテキストになる。ざっと見ることもできれば、全文検索もかけられるので、なんでもキャプチャしておけばよい。

考えたことを捨てずにすむ。整理する必要はなく、検索すればよい。

俺はこういうものを求めていた気がします。

自分の中身を全部ダンプしてしまいたい。