変化を受け入れるくらいなら死んでやるというわれわれの心を野放しに

しておいていいのか。(ここまでタイトル)



今日は小学校の読み聞かせボランティアに行ってきた。慰霊の日の1週間前なので平和に関するものを読めとの指定があったので、6年生に向け、沖縄戦の流れを説明しながら『沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』の一部を読むことにした。米軍が血みどろで戦い、キャラの立った人がすぐに死ぬこの辛いドキュメンタリーを、さらに蹂躙されていく日本側の視点を混じえながら読んだ。


読んだ後、他のボランティアの方々(多くは沖縄の普通の主婦)とお喋りしたところ、沖縄戦の悲惨さはよく知っていながら、それがなぜ、どのように、どんな背景で起きたか、ほとんど知らない方が多いことがわかった。なぜアメリカが沖縄に来たかすら、多くの方は知らないのである。


それで、自分の知ってる限りのことを、なるべく全体像が分かるように話してみた。日本がなぜアメリカと戦争になったか、それはどの程度避けられなかったのか、その前段階ではどのようなことが起きていたか。そうした大きな背景については加藤陽子戦争まで』の知識により、また、なぜ沖縄に来たかについては、日本の戦争上の動機や軍の展開状況、米軍の島伝いの北上、基地確保といった視点から解説した。


沖縄戦そのものの経緯も、みなさんびっくりするほど知らなかった。南部でひどいことが起きたのは知ってるし、ここ宜野湾市のあたりが激戦地であったことも知っているのに、激戦と南部の悲劇がどのように繋がっているのかはわからないという。宜野「湾」全体に上陸したんですよ、と言ったところ、ああ、それでみんな南部に行ったの、と初めてわかるのだ。


島の中央部に上陸されて南北に分断され、首里に向けて攻められた沖縄戦ではあるが、実はこれは日本側の守備部隊、大日本帝国陸軍第32軍の防衛計画に近い線の推移だ。宜野湾から与那原、首里にかけての小高い丘は、すべて残らず要塞化されており、日本軍はごくわずかながら望みのあるいくさを組織的に戦っていた。


問題は、首里まで兵を進められ、ゲームオーバーになってからである。


準備のできている場所で、日本軍としては例外的なほど充実した砲兵戦力を背景に、それでも圧倒的な米軍に対して2ヶ月間の徹底的な抵抗をおこなった結果、兵力は損耗し、防御陣は奪われ、城下に敵を見て、これ以上はどうやったって勝つ望みがない。という状態になったのが首里が落ちようとする5月下旬である。


しかし日本軍は降伏を選ばなかった。南部に撤退し、不十分な陣地に籠り、蹂躙され殺されるという義務を果たすかのように、部隊は全滅していった。さらに米軍が島の最南端まで侵攻し、戦闘能力をほとんど喪失しても、それでも日本軍は降伏だけはせずに逃げ回ることを選んだのだ。住民を強制的に巻き込んで。


南部への撤退とその後の嫌がらせのような行動は、本土決戦のために時間を稼ぐという名目をもっていたが、大本営に本土決戦での勝利のビジョンがあるわけではもちろんない。援軍が来ることもありえない。南部への撤退そのものが、ただの決断の先延ばしであり、犠牲者は完全な無駄死にだった。そして、住民の犠牲者のきわめて多くが、この南部の戦闘で出ているのだ。


慰霊の日が6月23日である根拠は、この日に日本軍の組織的抵抗が完全に不可能になり、総司令官牛島満中将が自決したことにある。しかし前述したように、きちんと準備された意味のある抵抗は、首里撤退の時点で終わっている。6月23日以前も以後も、互いに連絡のつかない日本軍は、虱潰しに殺されていただけだ。6月23日以前には拠点らしい拠点がまだ存在していた、というだけのことである。


逃げ回りと掃討の戦闘は8月15日を超え、9月まで続いたが、これは32軍司令部が正式な降伏をおこなわないまま、抵抗せよという命令を生かしたままで勝手に自決・消滅してしまったからである。末端は命令違反・軍法会議・死刑を避けるためには戦い続けるよりしかたがない。そして米軍は掃討を続けるよりしかたがない。


抵抗する能力があるわけでもなく逃げ回り、掃討戦にかかれば死に、生き続けるうちは現地で「自活」するというパターンは南方でも繰り返されていたことだが(『虜人日記』などに詳しい)、これはその戦闘地域にとてつもない負担を与える。土地の収容能力をはるかに越えて、大人の男が大量に導入されるのだから当然のことだ。


こうした負担を防ぐという視点で見れば、たとえ現地司令部が全滅しても、残った者を降伏・解放させる能力と義務が大本営にはあるはずである。しかし「全滅」した部隊を、軍は顧みない。というか、無視し、忘却しようとする。そしてこれを「日本国民」の住む地域でおこなったのが沖縄戦なのである。


戦闘の無責任な推移を見ても、またこうした無責任な放棄をみても、「沖縄は捨てられた」という一見感情的な物言いは、単なる事実でしかない。第32軍は5月に正式に降伏すべきだったし、そうであれば、沖縄の人が現在に至るまで強烈な不信感を持ち、何かあるたびにこれほどまでに怒り続ける、といったことはなかっただろう。


本当のことを言えば、捨てられたのは沖縄だけではない。そもそも昭和19年サイパン失陥で、日本には何の望みもなくなっていた。石油を依存する南方への海路が断たれ、本州全域が爆撃機の行動圏に入れられ、台湾や中国大陸との連絡も危ないという状態で、どうやって継戦しようというのか。


後知恵で見れば明らかであるが、また当時の近衛公の日記などを見ても明らかであったようだが、この時点で日本は降伏すべきだったのである。爆撃による死者、南方の餓死者、満州引き上げの死者など、日本の太平洋戦争での犠牲者の過半は、これより後に出ているのだ。


もちろん、そもそも論を言えば、アメリカと戦って勝てるはずがない。しかし開戦時には国民の大部分が大いに喜び、これに賛成していたことが当時のものを読むとわかる。だから日米開戦を国民の意思だと考えることは可能ではあるのだ。しかしそうであったとしても、絶対に勝つ望み無く虐殺されるだけの前途が決まった時点で、それを望んでいたものがあるだろうか。


昭和19年夏以降の犠牲者は、その全員が国のトップの無責任な先延ばしによる被害者であるといってよい。我々は細かいところだけを見つめて全体を見ることを拒否し、出さなくてもいい犠牲を出しやすい国民性を持っているが、そのような「自然な」「自由な」甘いやり方を、はたして指導者層にまで許してよいものであろうか。


国民が感情的で愚かな判断をすることは世界の歴史を見れば少なくない。というか、ごく普通の、あたりまえのことである。しかし、近代以降の西欧文明型議会制民主主義国で、それを指導者層にまで許している「おもんばかり」の「オカミの顔色をうかがう」「死ぬまで付き合う」国民が、日本人以外にあるだろうか。


自分たちがどのような社会的志向性を持ち、それがどのような危険を持っているのかということについて、われわれは常に個人的に注意し、自分の目が歪んでいないか、よく気を付けておく必要がある。「心からの判断」が、社会により、空気によって曲げられている状態を看過することは、われわれの人間としての矜持を、著しく傷つけるからである。