天才ブレインダンプ

小林秀雄の『モオツアルト』に引用されてるモーツァルトの有名な手紙がある。*1

それは、たとへどんなに長いものであらうとも、私の頭の中で実際に殆ど完成される。私は、丁度美しい一幅の絵或は麗わしい人でも見る様に、心のうちで、一目でそれを見渡します。後になれば、無論次々に順を追うて現れるものですが、想像の中では、さういう具合には現れず、まるで凡てのものが皆一緒になって聞えるのです。

― いったん、かうして出来上って了ふと、もう私は容易に忘れませぬ、といふ事こそ神様が私に賜った最上の才能でせう。だから、後で書く段になれば、脳髄といふ袋の中から、今申し上げた様にして蒐集したものを取り出して来るだけです。― 周囲で何事が起らうとも、私は構はず書けますし、また書きながら、鶏の話家鴨の話、或はかれこれ人の噂などして興ずる事も出来ます。


天才の強烈さを感じる。複雑な曲が天から降りてきて、出来上がったものが一瞬で一望できて、しかもそれをまったく忘れない。完全に記憶して五線譜の上に書きつけるだけ。この恐ろしいまでの能力はなんなのか。


モーツァルトの発想で「これは新しいな」と思ったのは、着想して発展させる能力と、それを繋ぎ止める能力を別々に認識しており、大事なのは繋ぎ止める能力の方である、と考えてるところだ。


オレの場合、着想と発展の方にばかり着目し、自分はそこそこ優れてるはずと思っていたのだが、何か書こうとすると思ったようには書けないし、それが普通なのだろうと諦めていたところがある。最終イメージはかろうじて見えるが、細部を見ていくうちに途中の部分を猛烈に忘れる。あれこれをいじりまわしに掛かってしまうと全体像は霧のように消え失せる。メモをがんばっても、後から見たら何のことやらさっぱりわからない。


圧倒的に不足していたのは、思考を繋ぎとめる方の能力であった。これを読んで、ようやく気付かされたのである。


以来、思考の記憶と記録というものにかなり意識が向くようになった。


折に触れて考えたり振り返ったりしてるうちにわかったことのひとつに、人間が現状持つ記録手段は非常に未熟で、頭の中のことをちゃんと書いておくことができない、というのがある。これは発想の記憶の不完全性とは別の、記憶を助ける道具そのものが未熟である、という話である。


このあいだトンボ玉作家の彩元堂と頭を回すにはどうするかという話になって、自分の実感としてはやはり三上は素晴らしいものがあると思う、という話をした。これは十一世紀中国の欧陽脩(トンポーローの蘇東坡の登用者)の言葉で、馬上・枕上・厠上、すなわち乗り物、布団の中、トイレでよいことを思いつくという観察である。


自分の場合は散歩が特によいようだ、これは馬上にあたり、というところまで話すと、彩元堂は、それは記録が取れないから駄目だという。いやいやそれは過去の話だろう、いまは音声入力が本当に素晴らしいから、と実演までしてみせたけど、それはたしかに素晴らしいけど自分には使えない、と彼はいう。


理由を問うと、彼の記録しておきたい着想や思考とは、すなわちガラスの加工についてのものであり、なるほどこれは言葉では表現できないものだった。この部品を玉の中でこう伸ばすには、このくらいの温度にしてからこの角度、この強さで突っ込んで、その後こちらにこう伸ばせばうまくいくのではないか。などという感覚的な「思考」を、メモ書きも音声入力もキャプチャできないのだ。


自分の場合、考えたことを言語化して出力すれば結構キャプチャできるから音声入力は福音だと思っていたけど、こうした概念的な思考についても、よく考えてみると本当にはキャプチャできてない。本当は言葉では考えてないからだ。


言葉ではなく何で考えているかといえば、概念の構造体のようなもので考えている。あれを持ってきてこれを持ってきて、あっちとこっちを繋げ、さらに別のあれを取り入れ、別分野の似た概念と同じ形にしてみて…こうした個々の操作は一瞬で行われる。いじりまわしているうちに、ものごとのわかったりわからなかったりが実感できてくる。出来上がった概念は目に見えるかのようだが、これを言葉として取り出すうちに、いろいろなものが落ちている。途中もあまり保存されない。出力が追いつかないのだ。


考えついたと信じたものを言葉として取り出してみたとき、それが総体として思考をよく表現できていると感じることは、ほとんどない。表現物は、考えたものからずれたところに、ちょっと違った形であらわれる。取り出すときに予想外の方向に大きくずれて、手触りまでが元と違ってしまうこともしばしばある。たまに頭の中より面白いものができるけど、そういうことは稀で、たいていは舌っ足らずな方向に、説明不足でよくわからないものとして表現される。考えたことを漏らさず忘れず書きつけられたなら、もうちょっとマシなものが書けそうに思う。


音楽の着想が技術の発展により録音という形で(それでも逐次的にでありモーツァルトの頭のなかに完成するすべてが眺められる形ではないが)キャプチャされるようなったように、こうした脳内概念の構造体も、将来的にはよりよくキャプチャされるようになっていくのではないか。スマホ時代になって、知的生産ツールは昔からすれば夢のようなレベルに達しているのだけど、これらは実は音楽におけるエジソンのレコードあたりに相当するのではなかろうか。


*2

*1:小林秀雄全集 第八巻 無常といふこと・モオツァルト pp.77-78 1967 新潮社

*2:ところで、頭の中身がそのまま取り出せて、そのまま戻せるようになり、しかも他の人のものも摂取できたら、それってテレパシーだよね。知的生産ツールが消費ツールに化ける現象はパソコンからタブレット/スマホの発展でも起きたことだけど、これが起きたら天才の発想をたくさん買ってきて楽しめそうである…。