ログって不要?

ソーシャルメディアとは基本的に、談話のコミュニケーションを拡張するもの、と定義できます。それは人類の強烈なコミュニケーション欲求を満足しようとするものであり、その意味で、最初のソーシャルメディアは手紙であると言えるでしょう。手紙は文字が生まれた瞬間に生まれ、以来無くなったことがありません。


手紙は「コミュニケーションの保存」というものも生じさせました。それはコミュニケーションを空間的に拡張するだけでなく、時間的にも拡張するからです。時間的な拡張とは、後から読み返してその時の気分を再体験することができることです。


パソコン通信から始まったデジタルなソーシャルメディアは、劣化のない再現可能な形式で談話がやり取りされるため、はるか過去に遡るための保存と検索が発達しました。パソコン通信のログや、配信された膨大なネットニュース(新聞のページとかのことではなく、メールのプロトコルを改変して作られたNNTPプロトコルで作られた掲示板のこと。fjとか)を全部保存してある人も稀ではありませんでした。


電子メールもソーシャルメディアであり、これは全部手元で保存できること、個人のやり取りからメーリングリストまで広い範囲を含んでいること、まとめて検索可能、やり取りが瞬時など、かなり優れた特徴を持っており、メーラに全部集めておけそうな時代もありました。


しかしソーシャルメディアの機能には、新しい人の流入がしやすいこと、一覧性が高いこと、チャットのような即時のやり取りなど、追求すればメールの枠におさまらなくなる部分も大事なので、主流は自由度の高いウェブにシフトして行きました。90年代の後半には、さまざまなウェブページが掲示板を持っているという時代がありました。このログは管理者が独占的に持っているものでした。ブログのコメント欄は、その名残みたいなものです。


SNSは2000年代前半に登場したソーシャルメディアであり、基本的にはサーバ本体にログが保存され、個人個人では取らなくてもあまり心配しない感じが強まりました。とはいえmixiなどはパソコン通信と似た雰囲気を持っていたこともあり、巡回してログを保存するような手法も一部では使われました。Twitterはログを保存する外部サービスが発達しており、少なくとも自分の発言はtwilogなどで保存してある人が多いようです。


しかし、即時のやり取りやマルチメディアであることなど、普通の会話をコンピュータの特性で拡張する方向性を持つようになると、ログの保存をほとんど考慮しない作りになってきました。やり取りの再現という欲求は直接過去のページにアクセスすれば満たされるので、エンドユーザーは保存の欲求も小さくなります。


この方向に突っ走るFacebookは、ログを取るのがほとんど不可能なインターフェイスです。TwitterAPIの規約改変など、そのような方向に舵を切りかけている気がします。mixiもタイムラインをトップに出すインターフェイスに変わりました。でも、これは持続可能でしょうか。ログの保存をサービス主体に任せきりにすることにすることには、何とも言えない不安感があります。それは自分でコントロールできてないと思うからでしょう。


すべてを自分でコントロールできる必要はないという考え方もあります。やり取りは膨大で自分以外の人のものを含むから保存していたらきりがないし、消えたら消えたでそのときだ、と思ってしまえばいいのです。


しかし不安感が存在するなら、そこにサービスの隙が存在するともいえます。談話のログのコントロールをユーザーから完全に奪う方向は、持続的かどうかわかりません。そして「ライフログ」という分野が逆方向から発達してきました。これは人生を最大限保存して後から見られるようにしようとする動きです。Evernoteなどの時系列何でも保存システムにあらゆる体験を投げ込んで、後で参照したり振り返ったり定量化したりしようとしています。


手紙を捨てられる人が稀であるように、他人とのやり取りは個人の体験としての保存欲求がとても強いものです。個人的には、コミュニケーションを望み過ぎるのは人類の脳のバイアスだと思ってます。誰かの体験がまるごと失われたとしても、まったく誰も困らないというのが本当のところです。特にその人の死後はそう言えるでしょう。ログはうまく欲求を騙して捨てることができるなら捨ててしまえば良い。でも、欲求の方が強すぎる。


こうしたことを念頭に置いて現在のSNSを見ると、いま最強のメディアでも将来どうなるかわからないというか、次世代の何かが見えてくるような、見えてこないような。