日本の電子書籍元年が2010年ってホンマかいな

若者の本離れを所得のせいにする記事を読んだ。「結局みんなカネがないせいじゃん」はSNSで人気のアフォリズムで、ここ20年くらいよく使われる論調だが、オレはかなり疑わしいと思ってる。この記事とかその典型である。

「海外では紙が横ばい、電子が伸びてるけど、日本だけ違う、それはみんなのカネが無くなったから…」というのが論旨だが、これはだいぶ荒っぽい議論だ。そもそも海外と日本では電子書籍の商品力がまったく違うのだ。

まず根本的に、日本の電子書籍って本じゃない。いつ読めなくなるかわからず、貸し借りもできずのやらずぶったくりで、とても安心して買えるものじゃない。

この圧倒的に低い商品力をカバーするような価格にもなってない。電子書籍も紙と同じ情報だから同じお値段ですよ、という値付けで、しかも撤退すれば買ったものすら読めなくなる。こんなもん、頭のネジが飛んでない限り買えない(飛んでるときは買っちゃうこともある)。

アメリカだと、電子書籍を図書館で貸し出してる、というレベルで、だいぶ根本的に違う。買った本もファミリーライブラリ機能で家族内で貸し借りできたりする。つまり、ちゃんと「本」を売ろうとしてるわけだ。

そういうシステムにするにはたくさんの決断と説得が必要だったに違いなく、商売に乗せるにはずいぶん大変だったはず。でもそうやって、知のインフラストラクチャとしてしっかりしたものにしよう、という意識が見える相手からなら、安心して買える。しかも半額くらいで買えたりする。

オレは検索性が大好きだし、人に紹介するのも好き。貸すと戻ってこないので、貸したい本は予備を買っておいて進呈する。そういうのが手軽にできて安い電子書籍があれば、今の100倍くらい買ってると思う。

日本での本の需要も、実はそんなに弱くない。たとえば公共図書館の個人貸出数の統計(図書館調査事業委員会「公共図書館経年変化」 )を見ると、ここ10年ほどは横ばい。ところが、20年、30年前からみれば、2.5億→5.0億→6.6億と伸びてる。若年人口の減少を考えれば、むしろ強く伸びたと言っていい。読まない人が増えてるとしても、読む人は、それ以上に借りてるのだ。

潜在需要があるのに市場が縮小するのは、出版社が根本的な問題を見ないから。つまり、いまの電子書籍みたいな枠組みではあくまで補助的な役割に留まり、主要な需要に訴求できないことを意識に上らせないようにしてるからである。

主要な需要を取りにいけない魅力のない商品を業界横並びで作ってるんだから、客が離れるのは当然で、これはマクロのせいなんかではない。というか、マクロが悪くなること自体は人口が減るんだから当然で、それに対応した枠組みを作らなければならない。その必要を本当に感じてないとすれば、不思議に思うレベル。

枠組みの無視というのは、たとえば経営者ですら「書籍の商品力」を一冊一冊の仕上がりのことだと思ってて、電子書籍ラインナップをプラットフォームにすれば読者に便利、資料が出てくれば生産性が高まる、みたいなことは考えてないということ(これもアメリカだとやってる)。

「出版不況の根本的な原因」は本屋が八百屋の感覚で経営してること、というのがオレの結論。マクロ経済は与えられた条件にすぎない。

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…それにしても、昨今のこういう記事って、マクロレベルの縮小を不況の「原因」としか捉えず、それが「結果」でもあることを忘れてる感じがするんだよね。

日本の経済が順調に縮小してるのは、出版界同様の、「既存のものからの収益を一滴残らず確保することに注力する姿勢」が、あらゆる業界に蔓延してるせいなんじゃないのかね。

そういえば、根本的な戦略を変える時期が来たのに変えられず、余裕がなくなると「縮小を前提とした効率の追求」をみんなでやり始める、というのは、90年代から繰り返し見てるような気がする。

777X、カッコいい

小さい写真だと767-400とかみたいだけど、動画で見るとメチャクチャでかくて、雰囲気が違う。巨人機だけど、それでいてDC-8を思わせる細長さがある。全長が76.5 mと、これまで最長だった747-8より20cmだけだけど長いらしい。

ひょろっとしてるけどエンジンがでかくて優美。いまから名機感がある。

翼端は飛行直前に伸ばす。駐機場やランウエイの幅員制限を回避するための機構らしい。

youtu.be

翼端は三日月型で尖ってる。そしてウイングレットがない。ここらへんも古臭い優美さに貢献してる気がする。

全日空の沖縄便にたぶん来るので、ぜひ乗りたい。

自転車とバイオリン

6月に連ツイでいいこと書いてたので、ブログにまとめておく。

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

何度か書いてる気もするけど,バイオリン始めて本当にたまげた,いまだに慣れない,覚悟の決まらないことは,あの音のすべてがマニュアル操作で実現されているということ。

posted at 16:45:37

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

さまざまな表情を持った音は「バイオリンを鳴らせば」「弾く人になれば」「正しいフォームで」「気持ちよく弾けば」「楽譜をちゃんと読み取れば」「曲に慣れれば」「流れに乗れば」自動的に出てくるのではなく,一音ごとに,その音を狙って弾けるようになる必要がある。
www.youtube.com/watch?v=NsWb5N

posted at 16:52:50

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

違った曲でも同じような音を狙う場面はもちろんたくさんあり,だから経験を積んだ人は初めて見た曲を自分の持っている音ですぐに弾けるということはあるわけだけど,その音は楽器が・伝統が・その人のスタイルが生む必然の音ではなく,その人が選んだ・狙って弾いてる音なんだよね。

posted at 17:02:16

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

そして,出したいその音が現状の自分に出すことができないものであるなら,普段の形を疑い,妨げになるものを特定し,運指の意識の優先順位を変えるなど,ありとあらゆる手段を使ってどうにか出した上で,反復練習で脳に回路を作る必要がある。

posted at 17:09:45

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

ここまで降りていって何かを実現する,という機会は大人の普通の生活にはぜんぜん存在しない気がするんだよね。ところがバイオリンレッスンでは,これがおおむね毎週求められる。

posted at 17:13:38

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

毎週毎週「自転車に乗れるようになる」のと同種の負荷をかけてるわけで(もちろん負荷そのものは自転車スキルよりずっと軽いけど),楽器は大人になってから習うと大変という話の本質はこれかなと思う。

posted at 17:20:38

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

んで,この「全部マニュアル操作ですやん!」という悲鳴は,自分がこれまで習熟してきたさまざまな分野になんとなく踏み込んできた人が発する不満と同質のものである感じがするのよね。

posted at 17:28:22

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

オレはそれらの不満に「あたりめーだろ何だと思ってやがったんだ」としか感じてこなかったし,バイオリンの先生もオレに「どうせ近道ないのに魔法みたいに出来ると思うな」と思ってるかもしれない。そしてあらゆる分野で大なり小なり同じことが起きてるのかもしれない。

posted at 17:34:18

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

だったら分野ごとの向き不向きのパラメータのひとつに「地道なマニュアル操作への納得のしやすさ」があるなー…と思う。

posted at 17:39:01

   

6月5日

@kamosawa

鴨澤眞夫@kamosawa

いや,オレはこのマニュアル操作的な地道なスキル構築を徹底的に避けてきた自覚があるんだけどさ。バイオリンでは絶対に避けられないようになってるの。

posted at 17:40:18

 


 

楽器だってコツを掴めばどうにかなる、と漠然と考えていたのに、ぜんぶ手動で覚える必要があって驚愕したという話から、手動部分があるのはどれも同じかも、と広げている。でも、いまは少し違ったことを考えている。

大人になると、みんな自分の確立したスタイルで仕事をする。「勉強」、つまり、それまで自分にできなかったことを克服してできるようにする活動のスタイルも、いつの間にか決まっているものだ。

勉強する分野が似ていれば、どこに勘所があるかは、ほとんど予想できる。オレの場合、本を読んで学ぶというアプローチが使える分野なら、分野の入門書を数冊ブラウズすれば、著者が何を本質と考えているかわかる。あとは要求レベルに従ってその場で学習するだけだ。

ところがぜんぜん違った分野には、これは当てはまらない。頭でっかちタイプのオレがバイオリンをやるというのは、「しっかり理解する」が大事な分野から「体に動作を覚え込ませる」が大事な分野への転換だ。

本から学べる分野では、その核となる本質的な考え方は何であるかを意識しながら、さまざまな本を見ていくだけで、筋道が大掴みに理解できてしまうというところがある。

オレはこれが得意なので、「やってみる」にためらいがない方だ。いろいろやってみても案外簡単にできるし、最近は難しいことを覚える力も上がってきたように感じるので、昔から興味のあった遠い分野への挑戦としてバイオリンを始めた。

ところがバイオリンの場合、漠然と本質を志向していても、誰もが意識する本質なんてものは存在しなかった。これはおそらく、多数の細かいスキルの集大成で「本質」が現出する部分がないことに加え、体の使い方に個別性が強く、その実現方法が人それぞれであるためだ(同じ身体的分野でも、スポーツの場合は、「これが出来なきゃ話にならない」そして「これさえしっかりしてれば格好がつく」という「本質」が存在し、その実現方法も決まっていることが多い)。

だから「本質は何かとアンテナを立てておく」という、オレの新分野へのいつものアプローチ方法を使うと、本質を外したあさっての方向に行ってしまうのである。

これはたいへん面白い。これまでのアプローチでは呑み込めない分野がある、というのもさることながら、手動で覚えるスキルの粒度と個数が違っているだけで、「これは自分には無理だ」と思いかねないのだ。

今回は自分のアプローチが通用しなかった個別事例だが、これには一般性がある。最初に慣れた分野が違っただけで、将来獲得できるスキル集合が変わるかもしれないのだ。最終的には、ものの考え方や生活のスタイルまでもが違ってくるかもしれない。人間は遺伝的な差異や獲得した考え方だけでなく、獲得スキルによっても別々の存在になっていくのかもしれない。初等教育における言語能力、みたいなとこにも繋がっているかも。

親指シフト(2)やまぶきRについて

Windows親指シフトを使うためのソフトであるDvorakJにNICOLA拗音拡張というキーマップを入れて使っていたところ、キー入力が絡まるという話の続き。

前回検討したとおり、これはNICOLA拗音拡張をやめることでだいたいの解決をみた。ところが、やまぶきRというソフトに切り替えたことで、親指シフト入力環境が大きく改善したので、これについて書いておきたい。こうなったのは、やまぶきRの同時入力判定が優れているためである。

前回からの経緯としてはこうだ:

  • 拗音拡張は捨てがたかったのだが、Mac親指シフト環境を作るときの定番であるKarabiner-Elementsというソフトが文字キーの同時押しに対応していないため、覚えても使いようがないので断念、設定を外した。
  • 生のNICOLA配列にしてみると、おかしな挙動がなくなり、かなり快適になった。しかし同時押しは100msに戻してもMacより入力がシビアで、たまに思ったとおりに入力できない。

親指シフトを始めて1ヶ月ほどで、キーボードを見ないで打てるようにはなっていたのだが、拗音拡張配列を外してみて初めて気がついたことがある。思っていたのと違った文字が出たときに、押すキーを間違っていたのか、シフトが押せていなかったのか、拗音拡張を誤動作させたのか、これまで区別できてなかったのだ。漫然と消して当てずっぽうに別のキーを押してみたり、また同じキーで入力し直してみたりしていたことに気がついた。

この、漫然と直す動作が癖になっていると、日本語入力はストレスそのものだ。意識のある部分が常に入力違いに備えており、文章を考えることに割ける容量が大きく減る。

ところが拗音拡張を外し、「いう」を「ヴぉ」にしてしまうような間違いがなくなってみると、いま自分がミスした入力が、文字キーの押し間違いなのか、シフトキーの押し損ないなのか、はっきり区別できることに気がついた。

そうなってみると、今度はシフトキーの押し損ないが結構多いことに気付くわけです。高頻度ではっきり意識してる「の」や「あ」であれば、シフトが押せてなかったことに気がつくけど、「ぬ」とか「れ」みたいに、そもそもうろ覚えな感じの残ってるキーがうまく入力できてなかったとき、これまでは漫然と「間違った~」で修正していた。それが意識できるようになった。

わかるようになってみると、シフトキーの押し損ないは、案外なほど多い。同時押し判定時間は100msに戻したので元通りのはずが、けっこうイラッとくるほど多いことに気がついた。

それで、ほぼ出来心と言うか、ほとんど期待しないで「やまぶきR」を試したところ、これが非常に快適だった。指が迷うことがなくなって、入力ストレスが激減した。

億劫だったインストールは実は簡単で、親指シフトの環境を構築する方法というページに、インストーラパッケージへのリンクがあり、それですぐ使えた。このページは自分が親指シフトを始めるきっかけとなった、安価な親指シフトキーボードを製作したライフラボという会社のもの。(そもそも最初にDvorakJを使ったのは、このページのやまぶきRの紹介に「ストアアプリやEdgeブラウザーではうまく動かないようです」とあったからなのだが、いまのところ不具合には当たっていない。)

やまぶきRが快適なのは、速いからだ。DvorakJでは、どうかするとローマ字入力の英字が見えるような気分になることがあったのが、やまぶきRでは、そういうことはない。もたつきみたいなものが感じられず、ダイレクトな入力感がある。

これは動作が高速なんだろうと思ったのだが、ちょっと調べていたところ、そうではないかもしれない(そうであるかもしれないが)ということがわかった。やまぶきRでは、同時押し判定のロジックそのものが違っていたのだ。

やまぶきRの同時打鍵判定時間は、36msとか100msとかの具体的な時間では設定しない。0-100のスライダで設定するのだが、これの単位は実は「%」なのだ。つまり、先に押した文字キーの押し下げ時間に対する割合で設定する。

なんと、判定時間が伸び縮みするのである。

やまぶきRの配布ファイルのmanual/index.htmlには、「親指シフトが同時打鍵と判定される時間範囲」という項があり、こう書いてある:

この時間範囲の決め方にはいろいろな方法がありますが、やまぶきRでは、「文字キーを押した時点を0、その文字キーを放すか別のキーを押した時点を100として、どれくらいの時間範囲を同時打鍵と判定される時間範囲とするかユーザーに設定してもらう」という方法をとりました。


 たとえば、「親指シフトが同時打鍵と判定される時間範囲」を60に設定したとすると、文字キーが押されてからそのキーが放されるか別のキーが押されるまでの時間の前半60%以内で親指シフトキーが押されていれば、同時打鍵とみなされてその文字にシフトがかかります。

これは非常に優れたロジックだ。人間は「これを同時押しだと判定してほしい」ときは文字キーを長いこと押すし、判定してほしくなければ、軽くタッチしてさっさと離すのである。

こうした「念を押す」とか「軽く済ます」ようなタッチは、人間相手なら通用するが、ふつうはコンピュータ相手には通じるものではない。それでも人間はそのように振る舞ってしまうものだし、それを汲み取るロジックが思いつければ、確実な動作のインターフェイスになるのだ。

また、これはやまぶきRのダイレクト感にもつながっていると思う。同時入力判定の見切りが早く付けば、文字をすばやく送出できるのだ。動作自体も速いかもしれないのだが、動作が遅かったとしても、多少重いロジックでも、これならダイレクトな感覚を得られるわけで、とても頭がいいと思う。

また、前のエントリではこのように書いた:

やまぶきRがシフトキー同時打鍵と文字キー同時打鍵の遅延を分離して扱っているなら、同時打鍵をシビアにしなくても大丈夫かもしれない

これも分離されていた。シフトキーと文字キーの同時打鍵判定と、文字キーと文字キーの同時打鍵判定は、別々の値(%)に設定できる。拗音拡張は当面使わないつもりだが、かなり心強い。

そんなわけで、Windows親指シフト環境について、当面これで満足だ。もういじりまわす部分はない。これからはもっと高速に、なにも考えずに入力できるように精進するのみである。

親指シフト

5月の頭に親指シフトを始めてから7ヶ月。最近たまに、Windowsで、「いう」と入力しようとして「ヴぉ」になったり、「とう」が「うぉ」になったりする。

これは親指シフトの「NICOLA拗音拡張配列」の設定により、「いう」や「とう」のキーを同時打鍵することで「ヴぉ」や「うぉ」を入力したと判定されてるため。

そしてこれは、親指シフトの使い初めの頃に、同時打鍵の判定時間を100ミリ秒と、デフォルト36ミリ秒の3倍くらいに設定して、打ち間違い(というか、この文字にはシフトが必要、と言う判断の遅さ)をカバーしてたため。こんなの長目がいいに決まってるよね?と思ってたんだけど、ようやくいくらか慣れてきて脳が勝手に打つようになり、エラーが出るようになった感じ。

というわけで、デフォルトの36ミリ秒に戻してみたんだけど…シビアすぎて濁点も打てないw 親指シフトは基本的に、生のキー入力は「かさたは」行に割付られてて、反対側のシフトキーと同時打鍵すると濁点付きになる。この同時打鍵ができないレベルなのだ(いまも「てきない」と「れへる」を打ち直した)。右シフト+Kキーで打てる「の」もなかなか打てなかったりする。高頻度なキーが打てないのは大変だ。

このまま強制的に慣れるべきな気もするけど、慣れることができるのだろうか…。いまも左シフト同時打鍵の「な」が「て」になりまくって3回直したよ…。

Macの方は、NICOLA拗音拡張ではなく、Mac英語キーボード用の配列を使っており、こちらは100ミリ秒で困ってない。つまり、NICOLA拗音拡張を入れなければ判定時間か多少長くても誤入力は起きない。

拗音拡張は日本語の1音節が必ず1ストロークで入力できるという、使うと感動するくらい便利な親指シフトの自然な発展形。だけど、Macの方では「あとで自分で設定しよう」と思ったきり使っておらず、使ってないと慣れないからWindowsの方でも使わなくなり、結果的には邪魔なだけになっちゃってるなあ…という気もする。

36ミリ秒に慣れるか、拗音拡張を諦めるか。どうせ慣れた方が高速に入力できるようになるんだから36ミリ秒でいい気はするんだけど…。

と書いたところで上の方に加筆してたら、「たい」が「いぇ」になったよ。36ミリ秒設定でも誤入力が起きるなら、拗音拡張を諦めた方がいいかもしれない。

ところが、別の情報もある。自分がWindowsで使っているのはDvorakJというソフトなんだけど、やまぶきRというソフトの方で、「蜂蜜小梅」という、やはり拗音拡張配列を改造して使っている大木真一さんが(https://medium.com/@auxin.one/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97%E7%B7%B4%E7%BF%92-3%E6%97%A5%E7%9B%AE-dfa732557da4)、文字キーの同時打鍵誤認識は経験がない、というのだ。

蜂蜜小梅はNICOLA配列とはまったく違った配列で、慣れてないオレなんかから見れば「共通なのは親指シフトであることだけ」くらい違うので、これが配列の違いによるものであれば、ちょっと移行する元気はいまのところない。しかし、やまぶきRがシフトキー同時打鍵と文字キー同時打鍵の遅延を分離して扱っているなら、同時打鍵をシビアにしなくても大丈夫かもしれない。

Windowsのウィンドウタイリング

大昔のWindowsには、最大化と任意の大きさへの調整のほか、「タイリング」という表示モードがあった。出てるウィンドウを全部隙間なく敷き詰めるというもの。ウィンドウにはそれぞれ適切な大きさがあるし、当時の解像度だとメインウィンドウをフルスクリーンにするのが当たり前で、あまり使われず廃れた。

ところがディスプレイを4Kにしてみると、このタイリング的な機能が欲しい。とりあえず必要なものは全部表示しておける広さになったからには、無駄なく敷き詰めたい。メインで使うものを左にぴったり寄せ、資料的な物も散らかすのではなく、ぴったりに置きたい。敷き詰めた状態でウインドウ同士の境界を動かせるとか、交点をドラッグするとモニョニョニョ~って関係ウィンドウが全部大きさ変わるとかしてほしい。

ということを書いたところ、今村勇介さんが、WindowsだとWin+左右でウィンドウを左半分や右半分に広げることができますね、と教えてくれた。ちょうど半分に表示できるという。

自分でやってみたところ、確かにできる。しかも、この状態で境界をドラッグすることで、左右に最大化されたウィンドウの幅を同時に変更できることがわかった。さらに、別のウィンドウをアクティブにしてWin + 右(または左)とすると、調整済みの大きさにフィットしてくれる。これは便利!

ということを書いたところ、自分でやってみた今村さんが、Shift + Win + 上下キーを使えば幅を維持したまま大きさを変えられるのも教えてくれた。これも既に定めた幅があればそれに吸着するので、大きさぴったりに設定するのが簡単。

左右をもう1段階くらい分割したいとか、上下分割をもっと充実してほしいとかはあるけど、すぐ覚えられて実用。だいたい満足。

Windowsキーが出たときは「なにこの『新設の盲腸』」と、センスの悪さに辟易、くらいの気分だったけど、かなり充実したキーボードショートカット起点になってる(https://support.microsoft.com/ja-jp/help/12445/windows-keyboard-shortcuts?fbclid=IwAR0r99GWEEESguxmAOqMQUSRHL5S__uMq4oYz3qAc6X05XUhZZTMkfR4UIY これも今村さんが教えてくれた)。

あとはMacだな、と調べてみると、OS標準の機能はヒットせず、chunkwmというウィンドウマネージャが見つかった(Mac 用タイル型ウィンドウマネージャ chunkwm - Qiita)。これはなかなか柔軟そう。そして現代になってもウィンドウマネージャがプラガブルとはすごい。