日本文化の根っから駄目なところを変えっちまわないか?

昨今の気持ち悪い政治状況。ポピュリストばかり前に出て、はては排外に走る「人類の敵」みたいなのまで一定の支持を得てるという。20世紀って、そういうものにどうにか対処して封じ込めた時代だったと思うんだけど、またこんなものに向き合わなきゃならんのか…とウンザリしてる人も多いんでないかな。

でもまあしょうがない。人類が前進した、というのはマクロ的に見た統計的な現象にすぎず、個々の人間は旧石器時代(日本なら縄文期)のハードウェアに教育というソフトウェアを載せてるだけの自律機械で、知識はコピーできないから個々の人々が「人類の知恵から外れた」「動物としての」認識を持つのは、いってみれば自然なことだ。社会もこうした個人の相互作用を共同幻想という漆喰で塗り固めたハリボテで、制度は漆喰の裏打ちになる竹の枠。枠のないところにも漆喰は盛れるから、全体の形はどんなふうにも歪むんだよね。

こうした景色の後ろにあるのは、まず間違いなく「日本がうまく行ってなくて自分のとこにも皺寄せが来てる」という認識だと思う。生きるのに困ってないのに排外に走るのは危機を煽られてるからで、その危機とは「これからもっと悪くなる」という予想だ。

その予想はたぶん間違ってるんだけど(なぜなら人類は前進してきた実績があるから。今こそ『ファクトフルネス』を読もう)、未来のことはわからない。

でも、日本の経済がここ1/3世紀、ここまで伸びなかった原因ははっきりしてる。ずっと泥縄対応主義でのみ政治を続け、産業構造の転換に失敗してきたからだ。

戦略を持たず、生活が変わらないことを目標にしてしまう態度。

これって実は、人類に普遍的なものだ。安心できる環境で楽しく暮らすのは誰だって嬉しいし、強制的に移民させられた被征服民は反抗の意思をくじかれるし、大きな災害でインフラが破壊された土地からでも離れたがる老人はいない。

でも、この態度を官僚・政治家・経営者といったリーダー層が集団の舵取りのなかで取り続ければ、文明の進展に伴って速度を増していく新状況の登場(直近だと重厚長大産業→ソフトウェアとか、石油→再生可能エネルギーとか)に戦略的に対応する(たとえばソーラーパネルを基幹産業に据えて外交で輸出量を確保する)ことは不可能だ。

ソーラーパネルも蓄電池も、一時はメモリ製造で世界を席巻した半導体にしても、変なアイディアを育てること無く生産量を確保することすら出来ず目先の改良だけをし続けて滅んだ。

これは「小忙しくしてるのが偉い」という文化の弊害でもある。常に限界まで忙しくしてしまい、しかも科学的な物の見方ができる人が少ないために遠い正解を目指すことが出来ず、前人踏襲的な「既に存在する正解」が組織内の正解になってしまう。これでは限界なんか突破できない。

先進国になったら通貨は高くなるけど、高い通貨でも安く(割安に)作る方法はある。イノベーションを積むことだ。目先の改良もイノベーションだけど、それだけではぜんぜん足りない。イノベーションは日本でも起きるが、圧倒的に手札が足りなかった。農産物と自動車とソーラーパネルはそれぞれ違ったイノベーションで安くなるのだから、サイエンスをベースにしてリサーチを続け、どんなイノベーションが可能か考察し続ける必要があるのだ。

政治が手を打てなかったのもまったく同じ構造。

常に小忙しく仕事を積み上げてしまっていては、産業構造の転換のような大きな事を考える時間は持てない。このことは政治家のブログやメールマガジンを読むと非常によく理解できる。上から下まで実はみんな同じように仕事を積み上げまくった生活を続けており、そんなことを考えている暇など誰にも無いのだ。

そしてこれは、制度の不備によって強化されている。重要事項を議論してるのに盤外の足の引っ張り合いで当事者が居なくなり議論が放置される現象は昔からよくあったけど(たとえば棄民政策といわれた海外進出・植民地政策の冷酷な無責任さは原敬の暗殺で議論が立ち行かなくなったことがそもそもの原因である)、こういうのは議員(そして内閣)の独立性と地位の安定性を最初にきちんと確立しておけば済むことだった。

天皇が統治し、内閣が輔弼する、という明治システムは日本国憲法で修正されたように見えるんだけど、実はぜんぜん直ってなくて、現代の日本のシステムも立憲君主制として非常に不完全な形のままなんだよね…。

さて、これらはリーダー層の問題なわけだけど、リーダー層だけの問題ではない。なぜなら戦略が立てられない文化とは、われわれ自身の国民性そのものの問題だから。法体系にもリーダーの選び方にも裁判の方向性にも、国民性というものは如実に反映されているものだから。

なので---だいぶ論理の連鎖が長い感じになったけど---あらゆる兆候が示していると思われる結論は、「戦略的に」国民性を変えていくしかない、である。

小忙しさに埋もれず、感覚でなく数字で物事を捉えられる国民を育てること。

これはつまり現在のように、一旦議論の的になれば微に入り細を穿ち小事を追求するのに議論になってない重要事項は放置する、という態度をやめて、必ず来る未来に対しては大胆に投資し、確度の低い未来には保険程度の出費しか許さない冷静さを持てるようになる、ということです。

それでは国民性はどうやって変えるのか。これはわりに単純なことだと思ってる。つまり国民性は小学校で形成されるという強固な観察があるのだから、文化生成機関たる小学校を「科学化」すればいいのだ。たぶんこれだけ。科学的態度の中で育った小学生は、程度の差こそあれ科学の人になる。なっちゃう。から。

とはいえ、戦略は単純でも必要な手順は多い。

まずは予算措置。最初から足りないに決まってる予算で権限も残業手当すらない現状では、理が通るだけのゆとりがない。このため現場は規制と「空気」でしか動いていかず、やりがい搾取で人間をすり潰す工場みたいになってる。校長に権限と予算を与える制度にしよう。いまの校長先生に予算と権限を握らせても当惑するばかりかもしれないが、制度が変わればそれに対応した人が上がっていくようになる。

先生が「クラスをまとめる」に特化しないで済むように関わる大人を増やす。まずは行き場のないポスドクが小学校で教えながら次のキャリアを狙えるようにしよう。

学習内容は「その後の学習の基礎となるもの」を教える。高い言語能力が第一で、高学年では大人の読むものが十分に読めるようにしよう。これは戦前にはできていたことである。

必要事項を並べた者だけでなく、大きく考えて本質を捉えた者を称賛できる価値観を育む試験制度にしよう…等々。

個々にエビデンスが必要とも思われるし、導入に時間の掛かりそうなこともたくさんある。

なにより、こういうことをやっても、直近の問題にはまったく寄与しない。たぶん効いてくるまで30年くらいかかる。オレらの生きてるうちは大変なままであろうけど、やる価値はあるのか。

しかしそれをしなければ、30年後も今と同じような問題に同じように小手先の対処をしつつ「おまえのせいだ」と言い合いながら暮らすことになる。この未来は確実に来るよ。

そして戦略的な教育改革とはフィンランドでやられたことである。日本でできない理由は…いくらでも思いつくなw

まあ、ここらへんを直さない限り日本はこのまま消えていくだけだろう。

なぜなら、理のない場所に入るとわかってて結婚してくれる人(日本では結婚数と出生数の相関がバカ高い)も、足の引っ張り合いで不利になる婚外子を生んでくれる人(結婚数と出生数の相関を下げて出生数を上げてくれる)も当たり前の存在ではありえないのに、昨今の政治状況が示す通りに社会が変わる兆候はないし、生む人の方が変わる道理なんか微塵も存在しないから。

つまり日本が消滅するのは自然な成り行きにすぎないとは思ってるんだよね。

それでも自分のいる場所は、もうちょいマシにしたいんだよな〜。