ギロン

個人的に思うんだけど、この震災で一番株を下げたのはジャーナリストの人たちだ。


ツイッターでSFと科学の人たちの書くのを見ていると、民放テレビは前から低かった評価を一段と落とし、新聞も「デマだと思ったら新聞記事というのが日常」みたいなことを言われてる。自由報道協会上杉隆さんなどは、もともとの評価は高かったのに、科学の基礎知識がなくデマをひろめる人という扱いになった。報道関係で評価が上がっているのはNHKだけ。


これは日本の「ジャーナリズム」というやつが、なんでもかんでも対立的に考えて、どんな相手でもいいから揚げ足を取りたいという姿勢を持っていること、出てきた情報にのみ反応して話をする態度が強いってことに原因があると思う。いま話題のトピックを扱うこともたしかに大事だが(アクセス数的に)、独自の取材とストーリーの掘り下げがないと、問題の本質なんか見えるようにならないと思う。


会見で有用な話を引き出そうとする人は稀で、発表を聞くだけの人と、発表者をやりこめようとしてる人しかいないみたい。ふーっと思ったんだけど、議論が下手なんだよね、これ。



ジャーナリズムの機能は、社会の効率を上げるのに必要な権力(集中した力)が社会を害することがないよう監視することだと思う。でも、監視に必要なのはつるし上げじゃない。何が必要な知識かをみんなに知らしめ、是非を判断できる情報の共有化を進めることだ。そうでなければ、誰もが理解できる形で是非が判明せず、権力の側も注意すべき場所を認識できない。


必要な情報を認識し、共有を進めるには、適切な知識と自分の視座が必要だ。知識が無いと何も理解できず、視座が無いと何も評価できない。でもそれだけじゃなく、当事者に対して空気を読まない話をぶつけた上で、相手の言うことを理解しないと、認識が共有できない。これこそ「議論」というやつだ。


前の日記のコメント欄でちょっと書いたけど、日本じゃ議論てやつがうまく成立しない。議論することで問題点を洗い出したり、認識を共有したり、落とし所を探ったりすることに慣れてない。たいていは議論を避けて空気を読んじゃうし、議論を恐れない人は論戦にだけ強く、説得される気がないことが少なくない。たまに話し合うことの有効さを認識してる人もいるんだけど、絶対的に少なくて、臨界質量に達さない。ブログのコメント欄などを見ても、いまいち活用されてないかんじ。


ここで非常に個人的な話。小学校の高学年の頃、めっちゃ議論する雰囲気のあるクラスにいた。理屈っぽいやつが少なくとも三人居て、突き詰めて話さないと結論出ないし!と、なんでもかんでも徹底的にやりあって楽しく暮らしていた。中学に上がってバラバラになったんだけど、三年生くらいで一人と一緒になった。普通にやってはいたのだが、おれらはクラスで浮いていたw 理屈っぽくて面倒なやつら的なものとして。


ある時、なにかの拍子で、小学生のときのように「だからこれがこうでしょ!だったらなになにだから!!」みたいに激論になったことがある。そしたら喧嘩してると思われたようで、アホな連中が集まってきて「やれやれー」と囃されてしまった。わーこいつら仲間割れしてるー、みたいなかんじ。顔見合わせて呆れて、話は尻すぼみになった。


このとき感じた違和感を抱えたまま世の中を見ることで、世間のもろもろに非常に鈍いオレにも、さすがに少しわかるようになった。「議論する」どころか「質問する」ですら、「敵対する」と同じ意味に取る人は案外多いのだ。そういう人達がかもしだす空気ってのは、数が多い分強いのだ。そういう人が多いことで、話が広がっていかなくなるのだ。


原発事故前の日本では、安全神話放射能怖い神話が同じように広まっていた。両者は話をかみ合わせようとせず、中間に居る人たちも、これはこういうものだからしょうがない、などと思い、判断はしないことにしていた。「どっちにも熱心すぎる連中が居るから関わりたくない」って空気読んじゃったんだと思う。


話をかみ合わせない人たちも、空気読んでる人たちも、問題を自分で覆い隠していた。ところがひとたび何かがあると、問題が見えてなかったことを怒り出し、「だまされた」などと言い出すのだ。でも、これまで興味すら持たなかったのは誰だろう。だまされたとか隠してたとか責めるのは感情のやり取りで、実際の問題の内容(安全性とか)にはまったく関わりが無い。


それって役に立たないなあ、つまんないなあ、せっかくだから議論すりゃいいのにと、小学生の自分がココロの中でつぶやくのでありました。