エッセイの書き方

アメリカの国語の授業では定型的な文章の書き方を教えて大量に書かせる、自由に書きなさいなんて言わずに具体的な書き方を教える、こうした文書教育は日本でもあるべきだ」、という議論があります。


このことについては、以前togetterで『アメリカの文書教育』というまとめを作りました。アメリカに留学すると文書教育ギャップにショックを受けるという話から始まり、文書を書くルールを教育し、実践させ、身につけさせることの効果や、それに使われているテキストなどの話のまとめです。


この会話を読むと、書くルールを熟知することで読むことも正確になり、読み違えが減るばかりでなく、書き手のレベルを簡単に測れるようになることがよくわかります。アメリカの知識人というものが文書での考えのやり取りにどれほど優れるかが見て取れて、たいへん興味深いものでした。


さて、書き方を詳しく教える、ルールを教える、具体的に教えるとは、けっきょくどんなことをやっているのでしょうか。こうしたことを知らないで、日本の国語教育になになにを導入すればどうなる、みたいな議論をするのは無意味であるように思います。


このまとめに出てきた本の中に、英語文書の読み書きの基本がぎっしり詰まった、小学生向け(9歳以上向け)の名著、"Everything you need to know about English homework" があります。





実はこれ、いまは普通にアマゾンで買えるので、私も入手して使ってます。

(画像はアマゾンへのリンク)


この本にはジャーナル、レポートなどと並んでエッセイの書き方の章があります(Part 7. Practical Writingの3番目)。そして前回の日記『読書感想文の書き方と自由研究の書き方を公開します。 - はてなの鴨澤』で書いたように、日本の散文中心の自由作文は、エッセイの一種に分類されるものです。


彼我のエッセイの書き方の教育を比較することができれば、その狙いや教育効果の違いを想像しやすいように思います。ですから、この本は教科書ではありませんが、十分に伝わる具体的な例として、翻訳してお見せいたします。(p.103)





エッセイ

エッセイは個人的な意見を表明するものです。エッセイは、強く思うことがあることなら、どんなトピックやテーマで書いても構いません。あなたのエッセイは、学食の食べ物のクオリティについてだとか、あなたがサマーキャンプを大好きな理由について、あなたの感じていることを書くものであってよいのです。あなたの心をゆるがすものはどれもおそらくエッセイの優れたトピックになります。


効果的なエッセイを書くには、あなたの意見や考えをちゃんと書いて、読者がそれを理解できるようにする必要があります。食べ物が素晴らしいとか、キャンプはすごいとか言うだけでは十分ではありません。詳しいことを書くことであなたの意見を補強し、読者があなたの視点を理解するようにする必要があるのです。主張を通すには、引用、ユーモア、誇張と言った表現を使うことができます。

エッセイを書くには
  1. トピックを選ぶ。
  2. あなたの意見の要点のアウトラインを書く(アウトラインについては68-69ページ)。
  3. ざっとした下書きを書く。イントロダクションではエッセイのトピックとあなたの意見を定めましょう。本文ではトピックに関してあなたが感じることの理由を列挙し、あなたの意見をサポートする追加情報や経験があればそれも書きましょう。結論では本文に列挙した理由たちをまとめ、読者があなたの意見に賛同するよう説得しましょう。



ここまで本文。

右側の小さい囲み(上)

エッセイは4つのパーツでできています:

  1. タイトル
  2. イントロダクション
  3. 本文
  4. 結論

右側の小さい囲み(下)

エッセイのトピックは確実に手におえるものを選びましょう。つまり、「スポーツと子供」について書くよりは、「子供のスポーツでの勝利へのプレッシャー」について書くことを考えましょう。

下の囲み

What's the Point? エッセイのさまざまなタイプ

エッセイは長いものも短いものも、深刻なものも軽いものも、事実にのみ基づくものも個人の見解に基づくものもありえます。とはいうものの、ほとんどのエッセイは3つのカテゴリーに分かれます: 解説型、説得型、ユーモア型です。
 解説型エッセイは解説や記述をするもので、説明型エッセイまたは記述型エッセイとも呼ばれます。
 説得型エッセイは筆者の視点を受け入れさせようと、読者を説得し、納得させるように書かれるエッセイです。
 ユーモア型エッセイは解説型エッセイや説得型エッセイで、メッセージを実感してもらえるようにユーモアを使ったものです。





「エッセイ」の章はこの1ページだけです。ほとんどこれだけで、かなりの理解が得られるように書かれているのがわかると思います。


そして、ここで伝えられているのは具体的な手順だけでなく哲学であり、どういう範囲のものがエッセイであるか、どのような要素が必要で、それらにはどのような意味があるか、といったことも理解できるようになっていることがわかると思います。


このように、形而上的な哲学と形而下的な手順を組み合わせることで、深く理解して使いこなし、読みこなすことができるようになる…ということを、さまざまな定形の文においておこなっているわけです。


これはかなり強力な社会基盤であり、知的活動を非常によくサポートする仕組みとして、コミュニケーション効率を大きく向上させているように思います。


ちょっと話が脱線しますが、日本の知的階層は、明治以来ピラミッド的な構造を持ち、その頂点に教養の横溢した文芸評論家(小林秀雄的なもの)がいる、という構造を持っていました。それは文系社会のひとつの形だったわけです。


しかし現代において、そのような構造はほとんど意味を持ちません。専門分野は深く、頂点は数多く、すべてを見渡す教養、などといったものは期待できません。


現代は教養の優れない者が物ごとを決めるからいろいろなものがこぼれ落ちる、という議論もありますが、そもそも教養とはなんでしょうか。教養はセンスに近く、センスより少し「共有された知識体系」に近い言葉だと思いますが、そもそもセンスというのも知識の集まりであり、分野ごとに「教養の体系」「センスの体系」があるように思われます。

専門馬鹿でないものはただの馬鹿である(小平邦彦

の方がずっと正しい世界にわれわれは住んでいます。


これほど価値観が多様化し、専門化が進み、それぞれに豊富な教養を持っている社会では、「文化的多民族国家」となることは必然です。であるならば、自分たちの教養こそ正しい! といがみあうのは詮無いことでしょう。


そんなわけで、互いの送出するメッセージだけでも共通化してコミュニケーションを効率化するという、元祖多民族国家アメリカの方法が、ここにきて非常に役に立つようになっているのではないかと思っています。


みなさんはどのようにお考えでしょうか。