2022年10月17日に鹿野司さんが亡くなられた

【訃報】鹿野司さん逝去のお知らせ

Facebook堺三保さんが鹿野さんとの交流写真を次々に貼ってくれているのを見ると、本当に亡くなられたんだなという実感が湧いてきてしまう。

人が亡くなるたびに「この方の知識は体験は見識は永久に失われ新たに直接的に何かを生み出すことはなくなった」という事実に圧倒される。それが膨大な知識をため込んだ鹿野さんとなるとひとしおだ。

鹿野さんだけが覚えていた他者の記憶、この人はこんなときにこんな風に思うだろう、というメンタルモデルも消えてしまった。鹿野さんの肉親のことを鹿野さんほどよく覚えていた人はもはや存在しない。鹿野さんはご両親が亡くなったあと天涯孤独の身であった。

死者はもはや新たな交流を関係性を作らない。自分のメンタルモデルを他者の中に作り出すこともない。他者の中にできているモデルを更新することもない。時間とともに、記憶者の死とともに、ただ消えゆくのみである。

星霜移り人は去る。覚えている人たちのことを折に触れて書くことは生き残っている者の義務…というよりは、当人たちにとって重要な衝動なのだと思う。なぜなら、大事な人達について書いたものを、もっとも読みたいのは自分であるからだ。

鹿野さんの死にあたり、鹿野さんとの交流の様子だとか、彼がこういう人だったという弔事のような話よりも、鹿野さんと話したかったようなことばかりが思い浮かんでしまうので書いている。弔事は他者に聞かせたいことであり、オレが書いているのは自分が話したいことである。過去の思い出よりも、もっと話したかったんだと思う。

オレ自身は21世紀になってからの交流だけど、中学の頃からログインで『オールザットウルトラ科学』を愛読してたこともあり、オレの中には鹿野さんのメンタルモデルが自分の判断を形成する自我の一部として組み込まれているところがある。何かを考えようとするたびにその部分が「もう死んでるので参照できません」という信号を発してきて思考に齟齬をきたす。

モデルはオレの中に存在するものであり本人とは独立のはずなのだが、そのような信号を発してきて齟齬をきたす。