海軍料亭小松のこと

むかしの日本海軍ゆかりの料亭「小松」に行って来ました。この訪問について、昭和の海軍についての知識がある人よりも、むしろ一般的に歴史全般に興味のある人に向けて書こうと思います。


海軍料亭と言われる高級日本料理店が、かつては軍港地帯にいくつもありました。当時のエリート階級だった海軍士官がよく利用したお店です。軍艦は、たとえば東京・晴海埠頭のような一般の港にはあまり入りません。日本なら呉や横須賀、海外ならノーフォークアメリカ)やポーツマス(イギリス)など、軍港と呼ばれる特殊な港を根拠地にするのが一般的です。軍艦の入港目的が一般商船とは異なるために住み分けているということで、物流や旅客とあまり関係ないので交通の便が良い必要がさほどなく、艦隊単位で行動したいため、沖のブイにたくさん係留して一度に出港できた方が便利なので、そのような地形の場所に作られます。


かつての日本の海軍は世界三位の規模を持っていました。この膨大な艦艇群は、ふだんは地方に振り分けられ、それぞれの単位で艦隊を構成していました。多くの艦船を擁した地方司令部(「鎮守府」)は、それぞれの根拠地として、一般の港とはまったく違った立地に、大規模な軍港を持つ必要がありました。


軍人・兵員と彼らが上陸して陸を楽しむさまざまな施設の人たちから成り、一般的な人の流れからは隔絶した軍港は、かなり特殊な都市であり、特殊な文化が発達しやすい背景がありました。「海軍料亭」は、こうした軍港にともなう特殊文化の一形態だったわけです。


海軍料亭には、日本の歴史に名の残る、それこそ教科書に出てくるような海軍関係者がしばしば訪れ、存分にくつろぎ、揮毫や逸話から艶聞まで、本当にいろいろな歴史遺物を残しています。小松に親しんだ人でいえば、たとえば東郷平八郎日露戦争聯合艦隊司令長官。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝)、鈴木貫太郎昭和天皇の信任篤い侍従長として二・二六事件で撃たれたが一命を取り留める。水面下で終戦工作を続け、終戦内閣総理大臣)、山本五十六(次官として三国同盟に徹底的に反対し続けたが対米開戦時の聯合艦隊司令長官。昭和18年に前線視察の途上米軍機の待ち伏せを受け戦死)などが挙げられます。


山本の「お気に入り」の話をはじめとする逸話の残りっぷりは、現代人の感覚からすると脇が甘すぎで不思議なくらいのレベルですが、これは当時は秘されていた話が戦後長い時間を掛けて掘り起こされた面もありますし、当時の人のおおらかさ、海の男の豪放さ(いいかげんさ)に加え、軍港という限られた地域で、地位に見合った高級店というのが他にほとんど存在しなかったために、少数の店に極端に、それこそ家族のように馴染んでいたことが大きいようです。


戦前の軍人というのは完全に国家のエリート層で、たとえば海軍兵学校(兵隊を訓練する学校ではなく、士官学校)は全国トップレベル中学(旧制)の上位生徒がこぞって受験する難関校、現在の感覚からすると「定員150人の東大」のような存在でした。しかし入営後の彼らの多くは艦船勤務であり、都市部で勤務するような生活はのぞめません。いきおい入港時にその地位と知性に見合った散財をすることになります。


横須賀で有名だった海軍料亭といえば、"パイン"と呼ばれた小松と、"フィッシュ"と呼ばれた魚勝です。松でパイン、魚でフィッシュとは子供っぽい呼びかたですが、戦前の海軍はイギリス海軍がお手本です。指導もあおぎ、古い時代には軍艦の建造も依頼しているなど縁が深く、英語っぽい隠語を作る癖がありました。だから"パイン"、"フィッシュ"というのは、とても海軍らしい愛称です。


こうした料亭は日本の海軍力の勃興とともに発達し、終戦とともに廃れました。海軍が消滅し、海上自衛隊が生まれるまでにタイムラグがあったこともありますが、そもそも戦後の困窮の中で戦前のような栄華が続けられるわけがありません。戦後の自衛官は貧乏な公務員でしたし(昭和50年代までの公務員は現代のように羨ましがられる職業ではぜんぜんありません)、税金で遊ぶことも現代では厳しく制限されています。日本にかわって横須賀に根拠地を置いた米海軍の司令たちも、日本料亭の意味などよくわからなかったでしょうから、高級店を支えられるわけがないのです。"フィッシュ"の魚勝は戦後廃業しています。


ところが小松は残り続けました。横須賀が爆撃を受けず、昭和8年増築と、終戦時にまだ築浅の高級建築があったこと、女将が終戦時に三十台と元気だったこともあり、一時は進駐軍向けのクラブになったりしたものの営業を続け、海上自衛隊や米海軍とも関わりながら、当時の建物のまま、いまも横須賀の街なかに存在し続けています。この女将、山本直枝さんが亡くなられたのは95歳だった2004年、いまからわずか十年前です。


歴史の舞台が現存する、というだけでも素晴らしい小松ですが、さらにポイントがいくつかあります。

  • 戦前の海軍提督たちが残したものなどを大事に保存し、訪れた客が見学できるようにとりはからってくれていること。
  • 店の人たちが逸話や故事来歴を重視し、さまざまな話を聞かせてくれること。

いま知られている海軍提督たちの逸話は、司馬遼太郎阿川弘之といった作家たちが戦後に積極的に掘り起こしたものが主ですが、それらのかなりの部分がこの店で取材されました。小松は歴史の「ソース」そのものなのです。


そして最大の特徴は、

  • 現在も料亭として戦前とまったく同じように営業していること。

にあります。つまり、歴史を博物館のような形ではなく、お金を出すだけで誰でも直接体験できるようになっているのです。当時の海軍士官たちや、戦後の作家たちが触れてきたそのものを、実際に追体験できる場所なんて他にはありません。


私の小松への訪問は、10月12日にSF作家の野尻抱介さんがtwitterで、小松を紹介するウェブページ「月に叢雲花に風|海軍料亭・小松」を紹介されたのがきっかけです。


「パインだ!」と反応したのは私とロケットジャーナリストの松浦晋也さん。予約さえすれば誰でも利用可能であり、料金はお酒を含め1万3千円程度ということがわかり、ぜひ行こうということになりました。スケジュールの空きをお伝えするやいなや野尻さんが電話を入れてくださり、提督たちが愛用したという「長官部屋」が予約できました。すぐに一番安いジェットスター便を取ります。沖縄からの往復運賃は14340円。小松に払う金額とあまり変わりません。


青山智樹さんが加わったり、直前に松浦さん急病により有馬桓次郎さんに交代したりと(お二人とも海軍に関係のある作家です)紆余曲折ありましたが、およそ一ヶ月後の11月6日、沖縄から片道8時間ほどかけて、はじめての横須賀を訪れました。小松に行ったのは翌11月7日でした。


次回は訪問レポートです。