敗因二十一カ条

この季節になったので、3年前にtwitterで紹介したものを再録します。

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終戦記念日にはこれを紹介せねば。小松真一『虜人日記』。フィリピンの航空燃料用ブタノール増産を任された技術者が見た太平洋戦争。 http://amzn.to/d4Xso1

「『バアーシー海峡の輸送は三割比島に着けば成功ですよ』と軍首脳は平気な顔をしている。七割にあたる人間はたまったものではない。…日本は余り人命を粗末にするので、終いには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気づいてしまった。生物本能を無視したやり方は永続するものではない。」

「…両国の最高首脳部が敵国の国力、工業力を計算し合った。米国は日本の力を大ざっぱに大きめに計算し、日本は米国の力を少なめに計算し、それにストライキ、その他天災まで希望的条件を入れて計算した。そしてその答えは現実にあらわれてきているが、日本のは計算が細かすぎて大局を逸しているようだ。」

「今度の戦争は、日本は物量で負けた、物量さえあれば米兵などに絶対に負けなかったと大部分の人はいっている。たしかにそうであったかもしれんが、物量、物量と簡単にいうが、物量は人間の精神と力によって作られるもので、物量の中には科学者の精神も、農民、職工をはじめ、その国民の全精神が含まれている事を見落としている。こんな重大な事を見落としているのでは、物を作る事も勝つ事もとても出来ないだろう。」

「生物学を知らぬ人間程みじめなものはない。軍閥は生物学を知らないため、国民に無理を強い、東洋の諸民族から締め出しを食ってしまったのだ。人間は生物である以上、どうしてもその制約を受け、人間だけが独立して特別な事をすることは出来ないのだ。」

コンソリの爆撃の真中に飛び込んでいった自分が…助かり、安全と思われたマニラ組が全滅同様の状態…兵力、武器、糧秣を持たない文官が、山の中で想像以上の悲惨な目にあったのが、目に見えるようだ。文官ながら兵力を持ちえた幸運を、兵隊達に感謝したい気がする。」

さらに、これはtwitterには書いてないけど、日本の敗因を箇条書きにして並べてある。それぞれ含むところ多し。

一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。しかるに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量にものをいわせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった。
三、日本の不合理性、米国の合理性。
四、将兵の素質低下(精兵は満州支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)。
五、精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)。
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する。
七、基礎科学の研究をしなかった事。
八、電波兵器の劣等(物理学の貧弱)。
九、克己心の欠如。
十、反省力なき事。
十一、個人としての修養をしていない事。
十二、陸海軍の不協力。
十三、一人よがりで同情心が無い事。
十四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事。
十五、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失。
十六、思想的に徹底したものがなかった事。
十七、国民が戦いにあきていた。
十八、日本文化の確立なきため。
十九、日本は人命を粗末にし、米国は大切にした。
二十、日本文化に普遍性なきため。
二十一、指導者に生物学的常識がなかった事。
順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかった事に結論する。

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他には、捕虜収容所での自然発生的な暴力団支配の話もあったり。
昔も今も、日本人はまったく変わってない。

小松氏は明治四十四年産まれ。三十台前半で燃料用ブタノール工場の構築の任を受けてフィリピンへ。醸造学だけでなく化学から博物学まで広い専門知識を持つ。捕虜収容所では記録の他、多くのスケッチ画も残しています。

フィリピンに行くまでの略歴:
大蔵省醸造試験所→農林省米穀利用研究所→台東製糖へ。昭和十五年に台東製糖無水酒精工場を創設し工場長に就任。昭和十九年一月には陸軍先任嘱託を命ぜられ、比島派遣軍ブタノール研究所設立要員となる。全ビサヤ地区砂糖工場および酒精工場の生産指導主任官となる。

読む価値高し。未読の方はぜひ。
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