DQNの教育問題について、またはわたしもDQNであるということ

親子間での扶養や援助の問題がいろいろ話題に登るようになった。伝統的な日本の価値観ではどうこう、と言われているが、基本的に「忠孝」というやつは弱者を保護せず、自由を増やさず、不幸を防止しない。

親子の絆は美しいが、親子をあまり強く関連付けないほうがいい。これは社会システム的にもそうだし、個人の意識としてもそうだ。個人を単位に考えたほうがずっと良い。

不幸の多くは人間関係、特に親子を引き離せないからこそ起きる。一番大きいと思うのが教育の問題だ。

99年に交通事故で3ヶ月近く入院したことがある。整形外科病棟というのは交通事故とヘルニアと老人が三大勢力で、交通事故はバイクが大部分。このため他の病棟に比べ平均年齢が低く、雰囲気も明るめだ。オレはそこで長期入院中の高校生に九九を教えたことをきっかけに、そういう家庭の教育問題を考え始めた。そして信じられないほどたくさんの家庭が、「知」というものとまったく無縁であることに気づいた。

この高校生は、入学して1年生になる春休み、つまり入学式前に無免許バイクで事故を起こし、足の骨を欠損して1年以上の入院を予定されていた。

話してみると非常に頭の回転が早く、覚えも良く、普通の教育を受けてれば大学院の友達の多くより優秀になりそうだった。しかし九九すら知らず、親には「そんなカネのかかる治療は要らない、足を切断しろ」と言われたと落ち込んでいた。九九は覚えたものの、それ以上の勉強には興味を示さず、寿司職人になると言うようになった。

前に住んでいた地域では、PTAの教育ボランティアを色々やった。小学校高学年の子供たちと付き合ってみると、これは伸びそう、この子は天才、この子は東大とかによく居るタイプ、みたいなのが1割くらい居た。十分に知的に生きていけそうだった。

それから3年ほど経つ。機会があって再会するたびに、周囲の大人のレベルの低さ、妙な処世術の影響を懸念させられる発言があったのだが、この前、ユニークな発想をしていた一人と会って少し喋ったところ、1年後の高校受験では工業高校を受けるという。目も輝いておらず、もうちょっと頑張れば、と言いかけたところで話が続けられなくなった。

思春期問題なんかもあるものの、話が通じなくなるのは意識が変わったからだ。根本的におれらが思ってる「普通の教育」はあまり普通ではない。社会には驚くべき率で知と無縁な大人が居て、そんなものは現実ですらないと言い立て、不幸を振りまいている。

遺伝的には知的な人とそうでない人に差はないし、知的かそうでないかも相対的なものである。自分のことをとても知的だと思っている恥知らずな人間(オレみたいなの)はどこにでも居るが、その人よりもはるかに知的な人も、またいくらでもいる。あいつはDQNだと指す指は、後ろからこちらを狙っている。社会は知的に分断されながら繋がっているのだ。この連続性は恐ろしくもあり、救いでもある。話せば分かるし成長もできるのだ。

能力のことでもうひとつ重要なのは、それが一人ひとりで大きく違っているということだ。人は体験したことしか理解できないので、自分のわからない分野の実力を把握することはできないし、自分の分野でも自分以上の実力を正しく測ることはできない。つまり大部分の人について過小評価するというバイアスがある。

だから、お前なんか駄目だ、という言葉は非常に高い確率で間違っている。この事実を知っておくこと、伝えることは重要である。これはまた、人の足を引っ張るな、ということでもある。他人の見てる世界はわからないのだ。

教育問題は幼少期に端を発して、どこまで成長したから安全ということもない。結局のところ、個人主義で自助的な価値観を育てるしかなく、意識ある人が手を伸ばせる範囲も非常に狭い、というのがおれのひとつの結論である。

もうひとつの結論は、どの段階のどの人に手を伸ばしても意味はある、ということ。もちろん相性や巧拙は大きいんだけど、向上心は誰にでもあるし、理屈も通じる。

自分の範囲のことで言えば、科学イベントは巨大なのも極小のやつも大事である。お祭りになってれば来る人もいるし、極小なら親に内緒で来られる。子供が伸びるのを邪魔する親を説得するのは手間がかかるので、勝手に伸びる機会を作り、個人的に来られるようにするのがよい。

すべての善きことは個人的に勝手に行われる。