初心者が大事

何かに習熟していくのは楽しいことだし、その過程で自分が欲しいと思った情報を出して社会に還元するのは、他人のためは勿論、自分のためにもなることだ。

無線でもパソコンでもなんでもそうだけど、ある分野が流行ったときに参入すると、だいたい同じくらいの学習レベルの「同期生」がひとかたまり現れる。何かが流行った時に人の先を行き、みんなの興味に向けた情報をタイムリーに発信すれば、需要は大きいし話を聞いて貰える可能性が高い。

でも実人数から言えば、ブームの後から参入する人の方がずっと多いべき。ブームとは新しもの好きの間で流行っているムーブメントが広がり、もっと広い範囲の人たちにひとつの分野として認識されるというプロセスだから。

ところが、情報を発信する側が自分や自分の同期生の興味にのみ注意を向けていると、後から参入する初心者にはタイムリーな情報が渡らなくなる。それなら初心者の中から情報の発信者が現れれば良いとも思うんだけど、これはしばしば先行者が邪魔をする。学習レベルが上がることは基準が上がることであり、初心者のちょっとした間違いを許せない、困った中級者が増えちゃうからだ。そうして初心者が学習カーブを上がりにくくなると、分野そのものが固定化し、美しく枯れ果てて「結晶化」する。これは昔から繰り返されてきたこと。

分野の結晶化を防ぎ、持続的に発展していけるようにするには、初心者向けの情報に目を配って洗練させていく必要がある。「昔流行った分野の入門書」ではなく、「決定版の教科書」が存在してる方がいいし、先行者が気を配ってタイムリーな情報を供給するのがよい。

これはオレが翻訳をするときの書籍の選定基準のひとつなんだけど、もっと広い範囲のことにも言えるなー、と感じている。おれが思うに、今の日本じゃ「科学思考」に結晶化が起きてる気がするんだよね。

科学は事実っぽいものを提示して、同様のものを観測した他人の批判に十分に耐えられれば、「じゃあこれが真実じゃね?」と積み上げ、先に進んでいこうとするプロセス。そこで一番根本的な価値観は、定量化とピアレビューだ。

定量化ってのは、現象を量として記録すること。これは価値観の方向性を示した言葉なので、実際には、できるだけ他の人が再体験できる記録を取りましょうってこと。ただ単に「何々と何何が起きました」でも記録しないよりは価値があるけど、それよりも「何々が2回と何何が1回起きました」の方が価値が高く、「何時何分に何々、何時何分に何々、何時何分に何何が起きました」はさらに価値が高いという意味。

ピアレビューってのは、同じくらいの力量の人に見てもらう、という意味。ど素人の大衆ではなく、実質素人の役人とかでもなく、同じ分野の人からの批判に耐えられるものが偉い、という価値観だ。具体的には、論文の出版に査読ってプロセスがある。投稿された論文には同じ分野の研究者が何人かでツッコミを入れ、それに耐えるものだけがパブリッシュ(出版)される。レベルの高い論文誌にはたくさんの論文が投稿されるので競争が激しく、ちょっとしたキズでもずんばらり!と拒絶される。パブリッシュされた後も、他の論文にどのくらい引用されるか、といった基準で論文の価値が測られる。

オレが考えるに、科学的思考の初心者に一番大事なのは、こうした価値観でものごとを見ることだと思う。でも、科学リテラシー教育にまつわる話を見ると、こうした部分は無視されがちで、科学の成果の広報と、ニセ科学への個別的なもぐら叩きをやってる印象だ。これって「自分の周りの同期生に向けた話」になってるんじゃないかしら。

別の似たような話。

放射性物質に対して元から感覚を持っていた人たちは、原発事故で漏れたものに対して既に興味を失ってる。だってゴミみたいな量だと思っちゃうし、そんな気分で発言すると「怒られる」から。

震災後に興味を持った人は数字に対するスケール感が無く、すごく心配がる人も多い。だからスケール感覚を与える情報をたくさん出すべきなんだけど、そういう情報が出せる人は既に興味が無い。

だけど、テレビで量的な話がうまく提示されただけで、ちゃんと定量的な考えを意識し始めてる人たちが散見できるのをこのあいだ見かけた(鉄腕DASH DASH村の除染実験と達也のチェルノブイリ、ベラルーシ訪問)。定量性を意識すれば、スケール感が出るまであと少し。

後からやってくる味方を退けないことが、科学にとってどれだけ大事かわかるよね。

それは社会全体に有益なことだと思っている。