ググレカスの効用

ちょっと前に、ググレカスをうまく伝えるにはどうしたらいいか、というのが話題になってた。コーヒーサーバは香炉である » 「ググれカス」を平和的に伝えるから「やじうまWatch」に飛んで、あちこちでアイディアが出てた。

こうしたアイディアを出すのは素晴らしい人たちであり、かゆいところに手が届く表現で気を使う。世話を焼かれる相手は意識しないままに検索させられ、なんだか自分が思いついてそのような行動を取ったかのようないい気分になり、もしかしたら以後は自分で調べてくれるかもしれない。ちょっとしたことなら教えてあげちゃうほうが楽に決まってるのに、相手に「自分で調べる習慣」を根付かせようとする努力を惜しまないのは親切心からくるものであり、個人的な対処としてはベストな解だと思う。

でも、この方向性を探っていくというのは、実はやっぱり間違ってるんじゃなかろうか。なぜなら、この方向に向かって進んでいくと、けっきょくは「昔の社会」に戻ってしまうからだ。昔はみんな「失礼のないように」いろんな気の使い方をしながら世話を焼いていた。相手に検索させるためのテクを徹底的に推し進めていくとその手間は増大し、最終的には「自分で調べることを尊重する心」を「教えちゃう方が楽」が超えてしまう。

コミュニケーションコストが大きいと感じる人は「人に聞くより自分で調べたほうが楽」って思うものだ。そして自分で調べる習慣を持っているために新しい技術などに通じるまでの時間が短く、その分野のエキスパートになりやすい。すると何が起きるか。質問を受けやすくなるのだ。逆に、自分で調べるよりも人に聞いたほうが楽じゃん、と思う人は常にいっぱいいる。だからコミュニケーションコストが大きい人に対し、小さい人からの質問が集中することになる。これは不幸だと思う。

人間は変わらない。検索エンジンのお陰で調べることが便利になったといっても、この状況の中でもいまだに「ググらないカス」は、実は結局学習なんかしない。カスのままだ。昔より検索する人が増えたとのは、若くて検索の便利さを知ってる人が増えたことに加え、検索しないとググレカスって言われちゃうし、と意識に上りやすい状況があったからだと思う。コミュニケーションコストが低い人は社会的な人なので、流行り言葉には反応してくれるのだ。

ググレカス」というセリフは、というか、それが流行っているという状況は、だからコミュニケーションコストが高い人のためのものである。このショッキングなセリフが許されたのは、みんなの(物事を聞かれやすい立場のみんなの)心に響きわたる言葉として、新しく流行ったからだ。しかし新鮮味が失われてくるとゆり戻しが来る。失礼に決まってるセリフだから面と向かって言うのは当然はばかられるし、その意味が膾炙するに従って、逆に「検索しろなんて失礼だ」という感覚が生まれる。←イマココ

簡単な解はないのだけど、常にこの手のセリフを流行らせる、というのはひとつの目標としてあると思う。「ググレカス」に代わって「自分で調べるのは人として当たり前だよね」というメッセージを伝える言葉を、我々は常に考えるべきなんだと思う。それも低コストで。

本当に優れてるのは「ちょっとした失礼を気にしない社会」の実現なんだけど、なんか若い世代でもそういうことをやたらに気にする人が結構いるので、わりと絶望的な気分になっている。