少年漫画のエロ表現について議論になってるようなんだけど、なんか違うよなあ…と思うことが多いので箇条書きでメモしとく。
エロと自由について
女性と自由について
- なぜ人権や文明を望む人たちがエロに反対するようになったかといえば、エロの開放は主として成人男性向けの自由であり、女性にはしばしば抑圧として働くから。
- 日本人女性とちゃんと話すと、少女・幼女期に「いたずら」を受けたことがない女性は居ないのではないか、という認識にぶつかることがしばしばある。これは庶民からエリート層までだいたい同じで、何も考えずにすくすく育った男としては戦慄せざるを得ないし、男性側の認識を改める必要があると感じる。
- 彼女たちのエロを見ない権利、晒されない権利、ひいては情報摂取に主体性を持つ権利を侵害していることに、エロ=自由という荒い認識は無頓着。
- 根本的に重要なのはすべての人間の主体性。男も女も大人も子供も全部人間で、全員の主体性の尊重を目指すべき。
- エロに限らず問題があると感じる作品も多い。女子を都合のいいオブジェクトとして隷属させ、それを「当たり前の前提」とするもの。ほんとに多い。
- ああいうファンタジーって単純にリアリティが無くて読む気がしないんだけど、あらゆる分野に出てきて気持ち悪い。
- が、そういう作品も排除せずに住み分けるべき。
- だから、表現の自由と女性が主体的に生きる自由を両立させるためには(つまり人間全部が主体的に生きる自由を得るには)、けっきょくゾーニングが必要である感じ。
規制と住み分けについて
- 日本の少年漫画はゾーニングの「子供側」にあるにもかかわらず、実はやろうと思えばいくらでもエロ表現ができる。世間で問題になると消えるが、それ以外の時期のデフォルト状態はフリーハンド。
- これではゾーニングの意味がないようだが、実績的にはエロ表現に理があることもある(たとえば上述『ハレンチ学園』の強烈な風刺と文学性)。
- ゾーニングが無力化されているならば、少年誌の編集長には高い見識が必要。ゲートキーパーの役割を担い、自分の基準を明らかにして、これに照らし合わせてOKである、と説明できるべき。
- 自主的なゾーニングもゲートキーパーも機能しないようであれば、最大多数の主体性のために、つまり公共の福祉のために、規制が必要になる。
- これは規制好きの保守層と人権の擁護者が抑圧のために手を組む、という「自由の側が負け」の状況である。
- 重要なのは、とにかく人間の主体性の尊重で、常にここに立ち戻ってほしい。その実装手段としての表現規制は、やはり妥当性を欠くように思う。
- エロだからダメ、表現の自由だからOK、というすれ違った二元論は、やはり議論が荒すぎる。
- 外形基準がそぐわないと認識するなら、主体的な基準の提示を避けてはならない。
- ゾーニングの「子供側」でエロ表現をおこなうにしては、出版側が人間性に無神経で無頓着で説明責任も果たしてない、というのが現状であるように思う。
民主主義って、自分らで制度を作って運用してナンボだと思うんだよね。自分らの好きなものを守りたいなら、逆に自分らで住み分けの枠組みを作って自分らで運用すべきなんじゃないのかね。