pyperclipというツールを教えてもらった

pyperclipはコマンドラインクリップボードを扱うツールだ。

同じことをやるMacのpbcopy/pbpasteは知ってたけど、このPythonモジュールはプラットフォーム非依存で便利。ただしテキストのみという制限がある。

インストール

Pythonの入った環境で:

$ pip install pyperclip

とするだけ。

使い方

まあ、普通に操作する場合は、これはCtrl-CとかCommand-Cでやればよい。ただ、自動生成したデータをパイプで受け取ってクリップボードに入れる、なんてことがしたい人には便利。後述のように自前のフィルタにかけた内容をクリップボードに返すときにも使う。

パイプで受けるような場合は、モジュールをコマンドとして使うpython -mというのを使う。つまり python -m pyperclip -cとする:

$ echo "Hello, neko" | python -m pyperclip -c
$

これでHello, nekoという文字列がクリップボードにコピーされた。Ctrl-Vとかやると貼り付けられる。

クリップボードの内容を読み出すのはpasteコマンド

コマンドラインで使いたければ python -m pyperclip -p とする:

$ python -m pyperclip -p
Hello, neko
$

クリップボードの内容が出力された。

クリップボードシェルスクリプトで編集する

このツール、どう便利かというと、シェルスクリプトのパイプとクリップボードが繋がるのがよい。

シェルスクリプトのパイプが繋がるということは、クリップボードの内容をsortコマンドで並べ替えたり、重複をuniqで排除したりすることができるということだ。

また、sedawkで文字列置換フィルタを書いてる人はそれが全部活かせる。

$ python -m pyperclip -v | [フィルタ] | python -m pyperclip -c

の形式で、クリップボードの内容を定形のフィルタにかけて一瞬で編集し、またクリップボードに戻すことができる。べんり!

定形フィルタをダブルクリックで実行する

さらに、上記の "python -m pyperclip -v | フィルタ | python -m pyperclip -c" のコマンドをシェルスクリプトとしてセーブすると、ダブルクリックするだけでクリップボード内容を定形フィルタにかけて編集することができる。べんり!!

Macの場合

シェルスクリプトをそのままデスクトップ等に置けばよい。

Windowsの場合

シェルスクリプトをそのままダブルクリックしても動かないが、wslを呼び出すバッチファイルを用意すればよい。

クリップボードの数字をソートしたいものとする。

まずはsort.shというファイルに

python -m pyperclip -p | sort -n | python -m pyperclip -c

と書く。

$ cat sort.sh
python -m pyperclip -p | sort -n | python -m pyperclip -c
$

(sort -nは数の順にソートするオプションで、これを指定しないと辞書順ソート(34, 53, 23, 10, 8, 6を一番左の数字を見て10, 23, 34, 53, 6, 8とソートする)になってしまう。)

次に、sort.batというファイルに

wsl bash sort.sh

とだけ書く。

$ cat sort.bat
wsl bash sort.sh
$

このsort.shとsort.batを両方ともデスクトップ等に置いておく。(sort.batの中でパスを指定することでsort.shの置き場所を自由に変えることができる。)

さて、クリップボードに数字の並び:

34
3214
65
2
64
23
4

をコピーする。

これをソートするには、sort.batをダブルクリックする。

ウィンドウが一瞬出て消えて、これで既にソートが完了して結果がクリップボードに入っている。

Ctrl-Vで貼り付けてみよう。

2
4
23
34
64
65
3214

楽ちん!

これはちょっと簡単すぎる例だが、テキスト仕事の人は書式を整える単純作業(見出しの先頭には*をつける、など)が発生することがしばしばあって、しかも全体には適用したくないとか、複雑だから置換ウィンドウに入力するのがダルいとかがいっぱいある。

pyperclipを使うと、そういうものを定形のフィルタに追い出しておけるのである。

私は慶良間の者なのです

加齢とは焦点がぼやけた状態が普通になっていくことだなー、と思う今日このごろ。

文字を追う目は文字を認識しただけで満足するので印刷のカスレみたいなのが気にならなくなった。

話題になってるニュースについて「あれかな」と思ったときも、本気で固有名詞を思い出す必要はない。皇族のなんとかさんが駆け落ちすると聞いたときにこのように検索したが、フツーに出てきた:

"さま アメリカ" - Google 検索 

むかし読んだ物語を思い出したくなったときも、題名や著者名といったインデックス情報は必要がない。ぼやけた焦点の中にぽっかり浮かんだ印象的なフレーズを検索すれば、その手がかりから手繰り寄せることができるものだ。

"私は慶良間の者なのです" - Google 検索

田宮虎彦『沖縄の手記から』は、中学の国語の教科書で抜粋を読んだ小説だ。オレが沖縄本島の西に浮かぶ慶良間諸島(けらましょとう)を知ったのは、この作品がはじめてだった。

教科書の抜粋では、主人公の軍医がたどりついた壕に取り残されていた看護婦の少女、當間キヨとの出会いと別れ、後にその死を知る場面のみが描かれていた。

「私は慶良間の者なのです」は、慶良間諸島沖縄本島に先立って米軍の侵攻を受け、守備隊も住民も子供まで一人残らず全滅したと聞いたキヨが、ここはすぐ米軍の侵攻を受けるから一緒に南部に移動すべきだ、きみにも家族があるだろう、と説得する主人公の話を聞かず、病棟壕に残ると強情に言い張る場面で出てきた言葉だ。

沖縄で暮らし、戦史を紐解くようになってみると、集団自決の犠牲が出ている慶良間の島々も、統計的に見れば全滅には程遠かったことがわかり、ああ…と思った。キヨが自暴自棄になる必要などなかったのだ。

もちろん南部への移動や、その後の戦闘の中で生き残れたかどうかを考えると、非常に危ない。沖縄戦では一般の民間人の死亡率すら四人に一人もあったのだ。

しかし必然に吸い込まれるように死んだ人の、その必然が「戦場の霧」にすぎなかったという虚しさは、防がれねばならないものだと強く思ったものである。

そうしたことを思い出し、いったいあの物語はどんな経緯で書かれたものなのか、まずは全体が読みたくなって古本を注文した。元になった手記も読みたいところだけど、これは辿れるかどうか。

7回打てる注射器 vs. マニュアル役人

このニュース。

www3.nhk.or.jp

"市は、通常、1つの容器で可能な接種回数は5回から6回ですが、7回接種できる注射器を入手するなどして効率的にワクチン接種を進めた結果、予定よりおよそ8400回分、多く接種できたとしています。"

5回を6回に増やせる注射器というのは聞いてたけど、7回とは? メーカー想定の1.4倍に増やせるってことがあるの?? 無理やりな歩留まり勝負???

とか思ったんだけど、経緯を調べてみたら違ってた。

まずは2月のこのニュース:
ファイザーワクチン1瓶の接種6回→5回 注射器の問題
https://www.asahi.com/articles/ASP2964BNP29ULBJ00Z.html

"厚労省によると、ワクチンは原液が瓶に入っていて、生理食塩水で薄めて使う。接種の際は瓶に注射器を刺し、決まった量を吸い上げる。同社から1瓶につき6回分とれると伝えられていて、1月にあった自治体向けの説明会でも同様の説明をしていた。

 だが、6回分をとるには特殊な注射器が必要だと判明。国内で確保している注射器を確認したところ、大多数は針や注射器の中にワクチンの液体が残るタイプで、5回分しかとれないことがわかった。厚労省は特殊な注射器の確保を進めている。"

つまり、もともとファイザー側では6回という前提で売ってるものを、国内確保注射器の都合で2割引きにしますよと言い出したらしい…アホいw

注射器よりワクチンの方がはるかに希少な資源なのは明らかで、こういう都合で「1瓶5回分」という説明をまかり通らせていたとは驚きだ。さすが厚労省

それで実際の容量を見てみた。添付文書によると、ひと瓶あたり0.45mlの薬液を、1.8mlの生食で希釈し、0.3mlずつ打つことになっているようだ。2.25mlの注射液が出来るから、6回打つと使用量1.8ml。無駄は0.45mlである。

このとき死腔率は0.45/2.25=20%となる。非常に少量で表面張力効果が出てくる液体と考えても、十分なマージンを考慮した見積もりだろう。

これを5回しか打たないとなると、0.75/2.25=1/3も無駄になる計算で、メーカー側も怒りだしそうな無駄マージンではないだろうか。

実際にはどんな事が起きたか。

まず、インスリンの皮下用注射器を活用した7回接種が登場した。

www.asahi.com

ただしこのインスリン注射器は皮下注射用のため針が短く、皮下脂肪が厚い人には打てない。そして皮下脂肪が厚いかどうかはエコー検査で事前に測る必要があるので、非常に大きな手間が発生する。まさにワクチンが非常に希少な資源であるという認識により登場した措置だ。

このため、針の長さを筋注用に改めたバージョンを、テルモニプロが即座に開発・量産した。石垣市のものはこれらだろう。なるほどと思った次第である。

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余談だけどこれ、接種の際の「誤差」ってどのくらい見込まれてるんだろう。

早い段階の治験では、薬液の量をいろいろと変えてみて、高い薬効が安全に出る量を決定し、その量を次の治験で使用して…ということをする。コミナティ筋注でも同じことがされているはずで、2倍量や半量よりも今の量の方を使うのは、誰にでも十分な効果が期待できつつも無駄が少ない量であることがわかっているからだ。

しかし、安全に効果が出るということは、量-効果カーブの向上が非常にゆるやかに、おおむね平たくなったところを使っているのではないか。量を1割減らした場合、どのくらい効果が落ちるのだろうか。「ちょっと薄めすぎちゃった場合」なども勘案し、多めに入れてあるはずだが、どのくらい薄めすぎる場合を想定しているのだろうか。

というのはこれ、生理食塩水をほんの1割多く入れるただけで、1.98+0.45=2.43mlになるんだよね。無駄のない注射器なら「8回」打てそうではないかw

いまの日本ではもう希望者はかなり打ちやすい状況になっていて、そこまで歩留まりにこだわる必要はないかもしれない。

そして歩留まり向上が目的化すると、日本人はすぐ危ない領域に行きがちなのも確かだ(「9回」打つとかね)。マニュアル遵守はそうしたムチャクチャな運用を防ぐには重要ではある。

しかしながら、マニュアルだけに頼り、中身を知らないのも危険だ。なぜなら、マニュアルに書いていないことを判断しなければならないときに必要な常識が、マニュアル遵守のみを習慣にしていると、まったく得られないからだ。

マニュアル遵守絶対の「能吏」タイプの管理職に、マニュアルから外れた対応を求められた途端に精神主義のムチャクチャな目標を立てて職場を一挙にブラック状態に持っていく人がわりにいるのは、実態を知ることよりもマニュアルの細部に精通することで仕事をしてきたからである。

文明とは個人の能力の絶え間ない向上であり、それを活かしてみんなで前進するには:

自分がしていることを理解している大人のやることを、杓子定規に縛ってはならぬ

が絶対的に重要だ。

日本の役人は、これがぜんぜんわかってない。決まってないことでも決まりの中に押し込めようとする。

これを直せるのは政治だけであり、復帰後の自民党が人事システムをいじり、政治優先型になったのは、だから良いことである。

問題は、それを正しく使うのを最初から放棄してることだ。

日本すごい

最近のニュースを見ていると、日本て本当にすごいなと思う。

パンデミックの制御も、ワクチン行政の崩壊も、アフガンの撤退失敗まで、すべてに共通してるのが、戦略の不在、価値観の共有なきこと、それにともなう資源配分の失敗だ。どれを取ってもリーダーシップ不在からの敗北である。

政治がこれほど無能だと、普通の国なら感染爆発死屍累々みたいな、誰がどう見ても何の言い訳もできないレベルの大失敗が起きるものだ。ところが日本の場合、強烈に批判されつつも、なんとか国っぽい姿を保ってる。意味がわからないくらいすごい。

これ、頑張る現場もすごいんだけど、一般の人の無関心もすごい。マスコミが無能で問題を検知できないところもメチャメチャにすごい。そして誰よりも、自分らのせいでこの状況に至っても、他人事みたいに解散だ総裁選だと政争やってる与党の人たち。ものすごい。

歴史的にもこうした傾向は一貫してて、太平洋戦争のビルママリアナでフィリピンで沖縄で本土爆撃で信じられないほどの数の人が死んでいても、上層部は平常運転で議会工作、陸海軍衝突、御前会議縄張り争い的な政争をやっていたし、市民も彼らを排除することなく、虐殺されつつ超人的(絶望的)な戦いを続けた。

日本て本当にすごいな〜、と思うんですよ。

頭おかしい。

ピレリにした

ティーダの右後ろのタイヤがバーストした。

このタイヤ、ティーダを2年前に中古車屋の現状販売で買ったときから付いてたタイヤで、悪くないエコタイヤなんだけど、当時からヒビとか入ってた。早めに替えないとなー、と思いつつ、溝はたっぷり残ってたのでそのまま乗っていた。

最近60km以上で走ると、トトトトトトというノイズが出るようになった。気がついた時にすぐさま止まり、4輪とも触ってみて調べたところ、右後輪のトレッド面の一部に膨張が見られた。スチールラジアルが数本切れて形状を保てなくなった症状だ。

やばいなー、と思いつつ、それでも騙し騙し乗っていたのだが、ちょっと緊急性を忘れて那覇ジュンク堂まで行き、帰りにAプライスという少し高めの業務用スーパーの駐車場に停めてスマホを眺めていたところ、「ゴッ、ゴッ」と2回、下回りを岩か何かにぶつけたような衝撃が来た。

止まっているので、自分でぶつけたということはない。もしやぶつけられた?と周囲を見回しても、そばに動いているクルマはいない。エンジンをまだ掛けたままだったので、突然ギヤボックスが壊れた? というのも疑って後退・前進してみたけど異状を感じない。

それでクルマを降りて周囲を見て回ったところ、右後ろのタイヤが潰れていた。なるほど、ここで来たかー。喉元すぎればなんとやら、ですね。

いやー、走行中にバーストしなくてよかったわ。最近のタイヤはバーストしても形状をある程度保つし、そうそう外れたりはしないものだけど、思い切り曲がればホイールを駄目にしかねない。

すこし広いところにゆっくり移動してスペアにタイヤ交換した。割れたタイヤを観察してみると、バーストは膨らんでいたトレッド面ではなく、内側サイドウォールトレッド面近くに生じており、ぱっくり口が開いていた。

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ティーダ車検

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ちょっと前に買ったつもりだったティーダアクシス。信じられないことに、もう車検の時期になった。2年の月日が煙のように消えた感じで、パンデミックの時間圧縮効果がすごい。

8月の間、車検の期限は9月だなとしか認識しておらず、9月になった本日、さて日付はいつなのかな〜、と思って見てみたところ、なんと4日までであった。短いw

慌てて陸運の予約サイトを見たところ、4日までの予約はびっしり埋まってる。ただし今日の午後の3ラウンド4ラウンドだけに空きがある。今日中に通せって…これはやばいのでは。

この時点でタイヤ交換の予約は取れてたので、そのまま車検の検査予約も入れておく。24ヶ月点検をざっと実行。

別エントリに書いたタイヤの持ち込み交換のあと、浦添の農協に寄って自賠責を更新。そのまま陸運へ…の直前で、予備検査場に立ち寄る。ここで点検調整してもらえば、まず落ちることはないのだ。コミコミ3850円(高くなったな〜)。

ところがここでトラブル発生。左のヘッドライトの照度が少し弱く、ギリギリの線だという。HIDなので玉が9900円に工賃も出ますから、カバーを磨いてコーティングして2200円がいいかもしれません(片眼)。あるいは、とりあえずチャレンジして、落ちたらまた考えるのはいかがですか。検査コースは1番か3番がいいですよ。

当然最後のやつを選び、陸運へゴー。

いま陸運の検査業務は独立行政法人化してて、自動車技術総合機構、というらしい。そんなハイテク開発とかできそうな名前でいいんかい。看板倒れもいいとこだろ。

で、ここの陸運(なんちゃら機構)には登録関係の窓口のほか、ユーザー車検用の窓口がある。今日ひさびさに行ってみたところ、この窓口の前にプリンタが置いてあり、その上でQRリーダが光ってる。このQRリーダーで、車検証の下の方に付いてるQRコードをピッと読むと、なんとそれで受付終了だった。プリンタがブーンと動き出して検査票が出てくるのだ。先進的!

あとは検査申請書、自動車税納付書、検査料納付書なんかを書いて(これは印刷してくれない。手書きのままだ)、敷地内の別の建物(別の法人だ)で印紙を買って貼って(39000円くらい)、検査の列へ。

検査をする建物には全部で5本のレーンがあるが、端の1本は「DS新規」。4本が継続検査のレーンである。このうち、1番レーンは大型車と兼用になっており、ヘッドライトテスターの方式が他と違っている。30年前の学生時代、ヘッドライトがめちゃめちゃに弱いHR30スカイラインユーザー車検した時もこのレーンにお世話になったものだ。今のティーダのヘッドライトは目視ではアホみたいに明るく、実際の明るさはスカイラインの何倍もある気がするが、やはり今回もこのレーンに並ぶのである。

書類チェック、外観検査、ブレーキ検査、スピードメーター検査等を終えると、いよいよヘッドライト検査。

困ったことに、ヘッドライト検査と同時に、排ガス検査もやるようだ。昔からこうだった気もするし、昔は乗ったままだったような気もするが、とにかく、これでは排ガス検査を降りてやらないといけないため、乗り込んだままエンジン吹かし気味にして電力に余裕を持たせる、という光量低下対策は不可能なわけだ。これはドキドキ!

果たして…と見ていたら、左のライトの検査で、テスターが細かく動いた後、お知らせボードの「☓」印が点灯してしまった! ギャー!!

しかしこれ、同時に「下」のランプも点いている。これ、ライトの方向がおかしい場合の表示では…?

そう思いながら見ていたら、良好なはずの右側のライトでも、同じ「☓」「下」の不合格表示がでた。続いて、検査官からの指示アナウンスが聞こえた。

「ハイビームにしてください」

いまは車検でロービームの配光を見るようになり、検査はロービームで、と聞いていたのだが、このレーンではハイビームで検査するらしい。あるいは、ハイとロー両方の検査をやるようになっていて、排ガス検査に夢中になっている間にロービームの検査が終わっていたのかも。

ともあれハイビームにしたところ、今度は両方とも○マーク! 大丈夫だった!

レーンの最後の小屋で合格印を貰い、事務所に行って提出。新しい検査証を発行してもらったらフロントガラスの期限シールを張り替え、すべて終了である。

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2枚組でなんか複雑な手順があるのは、ナンバープレート貼り付けタイプと窓ガラス貼り付けタイプ(裏文字)を1種類で済ませつつ片面印刷で済ますためらしい。なかなかよいパズルである。

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そんなわけで、車検を思い立って四時間ほどで完了してしまった。これはスピード記録。IT化って実に素晴らしい。

ところで今回、朝の予約では一旦不合格になった場合に備え、午後イチ(3ラウンド)を取ったのだが、タイヤの交換中に受付が間に合わないことが予想されたため、スマホで午後の後半(4ラウンド)に取り直している。このとき見た予約状況によると、明日や明後日の予約が数枠ずつ空いていた。すなわち、キャンセルがけっこう出るらしい。日程がギリギリの人は何度もチェックすると良いだろう。

掛かった費用は以下の通り:

  • 自賠責24ヶ月 10650円(JA)
  • 重量税 34200円
  • 審査手数料 1300円
  • 登録手数料 400円
  • 予備検査費 3850円

小計50400円。

またこの他に、

  • タイヤ4本 18480円
  • タイヤ交換(持ち込み、処理費用等すべて込み)7920円

小計26400円が掛かっている。(あと、作業を急いでもらったのでチップを2000円進呈している。)このタイヤ交換については別エントリ、ピレリにした - はてなの鴨澤 を御覧ください。

総計は76800円である。

ユーザー車検は久々に通したけど、予備検もけっこう高くなってるし、不安のあるクルマなら工場に頼んで24ヶ月点検費用を払った方がお得、という価格感かも。ここらの点検整備価格も限界費用付近まで下落してて、街の工場にぼったくり感はありません。自分の需要に合わせて選びたい方を選ぶべき。

そしてユーザー車検は、自分で全部実感的に把握しておきたいような人にオススメです。ライトの光軸やホイールアライメントなどのいつの間にかおかしくなってる部分が、2年間でどの程度狂っているか、狂うものなのかを洗い出せるので、その点がとても良いです。

日本的陰惨さはいつ消えたのか

戦前の日本のことを扱ったものを延々と読んでいる。「これは今もまったく変わらんなあ」と思うこともたくさんあるものの、「さすがにこれは無いわ、日本も文明化してるわ」と思えることも山ほどあるのは嬉しいことである。

たとえば、いまや、日本的陰惨さ、というものはフィクションの中にしか存在しない。些細なことをどこまでも詰めていきリンチに至るとか、毎晩延々と続く理不尽極まる制裁に耐えるとか、そうしたことに美しい存在が突然巻き込まれるとか、それらすべてが逃げられない関係の中で続くといった、江戸時代的な、昭和初期的な、赤紙招集的な、思想犯拷問的な、内ゲバ殺人的なものは、もしくは、樋口一葉的な、大杉栄的な、安徳天皇的な、鎌倉武士的な、局中法度的な、その他生々しすぎて書きたくないような時代の下った諸々的なものは、社会の表舞台から姿を消した。

これは、そうしたすべてが根絶されたと言っているのではない。現代には、少なくとも、命が一番大事で犯してはならないものである、という社会的同意があるということだ。こうした同意が社会に普及していることはとても大きく、命が本質的にはどうでもよかったかつての社会とは一線を画している。どの年代に潮目が変わったのか、振り返ってみると境目が見えず、ちょっと不思議だ。

こういうことを書くと、戦後の社会変化のためだ、命が地球より重いとか言い出したあれだ、というような、いわば教科書的な感想を抱く人もいるかもしれないが、それはそうではない。

思い起こせば、少なくとも昭和の続いてる間は、名誉が・仕事が・国家が・貞操が・etc...が命よりも大事である、という意識は社会の本音の部分に抜きがたく存在し、そのための(他人の)死を称賛する意識は通底していたように思う。そして命の軽視は、転じて他者の尊厳の軽視となっていく。

現代はまったく違っていて、上記のような死を本気で称賛する者はいない。社会の大多数が、そういった死が単に忌まわしいものであることを常識としており、旧来の価値観で当たり障りがなかった称賛の言葉を発する老人などは、一発で白眼視されるようになっている。

とはいうものの、死がエンドポイントの役割を果たすようになったこと自体は、大きな意識の変化の一部にすぎないかもしれない。戦前の話を読んでいて感じる日本的陰惨さの底のなさには、いまや誰もが耐えられなくなっているように思う。

これは軟弱化ではない。文明化である。すなわち、個人の能力が大きくなり続け、自然選択形質のすべてが中立化していき、霊的現象が幻想に過ぎないことが白日のもとにさらされるという状況の中で、自分にとって本当に価値のあるものは何か、ということを皆がよくよく考えるようになった結果である。

そう考えてみると、あの日本的陰惨さというものに誰もが耐えられなくなったその時こそ、社会から陰惨さが姿を消した時期だと言えるのかもしれない。

自分の記憶では、80年代には社会がどんどん明るさを増したことがひとつあるのだが、それとは別に、かなり最近になって、いつの間にやらこの文化的なくびきを脱していたことに気づいたようなところがある。90年代から2000年代のどこかに何かがあるような気がする。

これは昔の日本から見ると夢のようで、こうした社会が現実化しているのだぞ、ということを、本の中の戦前戦中の人に教えてあげたくなる。もちろん、あちらからすれば、遠い遠い夢の国の非現実的お伽噺としか思えないかもしれないのだが。