地方単独でのロックダウンは無理

友人が現在の沖縄の流行状況に憤っている。

彼は学習塾を営んでいるが、ほとんどロックダウン状態でオンライン授業を余儀なくされている。小さい子供が居るが、保育園は休園で、おうち保育が長期に渡る。沖縄の常で親御さんは頼れるはずだが、これは感染対策上は非常によろしくないことなので、やっていないかもしれない。奥さんもあまりリモートワークの効かない正社員なのでワンオペ育児になる場面も多いはず。そんな状態でオンライン授業って…。

こうした窮状も、今度の流行ではほとんど必然となってしまっている。デルタ株は子供の感染が非常に多く、先週(8/9-15)の状況分析によれば4138人の新規陽性者のうち未成年が23%を占める。若年での中等症、後遺症の発生率も低くないので、感染はどうしても避けたい。となれば、やはり必然的に、このような形になってしまう。

しかしそれにしても、今回の流行は長い。沖縄は春の流行(4波)が下がり切る前にゴールデンウィークによる流行(5波)が来て、これがアルファ株主体だったために大爆発した。7月に入って新規感染者が100人を切るようになり、まだ下がりきらない、もうちょっと、とやっているうちにデルタ株が来た。アルファ株をはるかに超える大、大爆発的流行となって、最近ようやくピークが見えてきたように感じるところ。

彼は言う。2週間くらい完全にロックダウンしてほしいです、と。国がお金をくれないなら地方債を発行するとか、地域通貨を作ってでも、なんとかして欲しいものです、と。

たしかに、デルタ株の終息にはどうしても活動を止めるしか無い。それにはちゃんとした補償が不可欠であり、国がやってくれないなら勝手にやるしかない…という論理は、まったくその通りだと思う。

しかし、日本の予算構造というのは地方の独立的な動きをほとんど封じる形になっている。そもそもの流れとして、税は国税で大部分を回収するし、巨大な国債は金融行政と一体になった国にしか起債できず、地方は国からの配分を受けるしかない構造だ。

地方税や県債は県の予算の柱の一つではあるものの、これらは全体のせいぜい数割。地方単独でそんな大きなことができるわけがないですよ…なんてことを言っても通じるわけがないので、具体的な数字を調べてみた。

沖縄県の現在の予算の規模感は:

となっている。言うまでもないことだが、予算のほとんどは既に使いみちが決まっており、自由に転用することなどまったくできない。補正補正で4300億も出費しているが、これは2年分の予算の1/4以上だ。

これに対して、ロックダウンに必要な支出はどの程度になるか。

支給のスピード、誰もがどうにか協力してくれそうな額であること、2週間は生きられること…といったことを考えると、「10万円をもう一度配る」が現実的であるように思う。これでも日給7千円でギリギリの額だろう。

それで付帯作業に予算をつけず(ブラック)、ギリギリの額で支出するとすると:

  • 146万県民に10万ずつ配ると1460億(予算の18.5%)

である。はい解散。

いやこれ、どう考えたって無理だよね。

  • 特別予算は出ない。
  • 県債は過去の実績の7%程度を既に超過。
  • それどころか県の措置があるならと、国の休業補償が止まる可能性もある

という状況で、地方債にしても地域通貨にしても、こんな規模で出せるはずがない。

前述の友人が県議に問い合わせたところ、災害対応目的での県債発行を働きかけている、とのこと。しかし、それでいくら捻出できるのか。大盤振る舞いで2~300億絞り出したところで焼け石に水というか、一発で効く荒療治はできずに財政が悪化し、国への依存度をさらに高めるだけだ。これは選べない道ではないだろうか。

やはり、国の介入なしにロックダウンは不可能なのである。日本では。

デルタ株は自然鎮火しない山火事のようなものである。医療拡充では間に合わない。ワクチンによる「不燃化」も間に合わない。罰則ベースのロックダウンは生活を破壊する。だから補償によるロックダウンが不可欠なのだ。

国がやるしかない。地方の選択肢を奪い、自分たちで政策を選択してきた者の、これは義務である。

にも関わらず、国のやっていることは見えない。メッセージもない。

東京すら見殺しの状況で、沖縄はどうなっていくのか。

沖縄県で救急車待ちが出ない背景は中部病院ERのQ&Aに書いてあった

沖縄はここ2ヶ月ほど、COVID-19の新規感染者が全国一位だ。

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都道府県別】人口あたりの新型コロナウイルス感染者数の推移 (https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/japan.html?y=0 より)

ところが、このコロナ爆発下でも、内地のような「救急車10時間」みたいな話をぜんぜん聞かない。

これは、県が一元管理してる空き病床の把握システムがあるのが大きい。どこに行けばいいのか救急隊員が経験と実績で判断とかしなくてもいいので、入院調整がすぐに済む。20分も待つとニュースになるくらい。

むしろ他の都道府県に無いのはなんでだぜ?? と思ってたんだけど、その背景が県立中部病院ERのページのQ&Aで軽く触れられていた。

どうやらこれ、米国統治時代の遺産らしいんだよね。該当箇所をご紹介:

Q: 内地の救急と沖縄の救急はどこがちがっているのでしょうか。

A: 日本の救急医療システムは一次救急、二次救急、三次救急と、患者さんの重症度に応じて、病院が指定されています。 内地ではこの分類に従って、患者さん自身または救急隊が重症度を判断して、受診する病院を決めることになります。

沖縄県では県立病院群が中心となって救急医療を担ってきました。 沖縄県ではアメリカの医療体制を元にしていたため、24時間、365日受診でき、重症度に関わらず一次から三次まで対応できる、 いわゆる「ER」を基本とした体制となっています。

このような体制をとる病院は内地にも増えてきていますが、まだ少ないのが現状です。

当院は国内で最初に「ER」の体制を取った病院です。

なるほどですよね。とりあえず県立に運び込めば対応してくれるという態勢が、ふだんから出来ているわけだ。

そしてこれ:

Q: 沖縄では”たらい回し”がないと、新聞で報道されていました。
内地での患者受け入れができないという理由の一つにベッド満床が上げられていますが、中部病院が満床になると”たらい回し”となるのではないでしょうか。


A: 救命救急センターには診察後、経過観察を必要とする患者さんのためにベッドが20床備えられております。 症状軽減した患者さんは帰宅となりますが、さらに治療や検査が必要と考えられる患者さんは一般病棟に入院となり、移動していただきます。

その一般病棟が550床ということになります。一見たっぷりベッドに余裕がある印象があるようですが、実際は治療入院中の患者さんが沢山おられ、利用できるベッドは限られているのです。だいたい、毎日40名の患者さんが退院されて空きベッドが出ます。

そこに外来から約20名入院され、救命救急センターからも20名の入院があります。従って救命救急センターからの入院患者さんが多くなった場合には”中部病院が満床で入院が出来ない”ということになります。

しかし、われわれは先輩方から引き継がれた「空きベッドは作るもの」のポリシーのもと、あらゆる手段を尽くして、重症患者さんを受け入れるための空床を確保します。

そのために以下のようなことを行っています。

  • 病気がよくなり退院間近の患者さんへの繰り上げ退院依頼
    (申し訳ありません。無理なお願いをいつも快くお引き受け頂きありがとうございます)
  • 状態の落ち着いているものの経過観察のため入院が必要な患者さんには転院紹介(紹介をしていただいた病院へ逆紹介等)
  • 入院紹介先病院から中部病院への転院の延期依頼
  • 本院の外来から予定入院患者さんへの入院延期
  • どうしてもベッドが確保出来ない場合には責任を持って他病院に紹介

このように、たとえ満床状態であったとしても、我々は中部地区の、また、沖縄県の救急医療の最後の砦として、緊急の患者さんは受け入れる努力を続けております。 患者さんにもご協力を頂きたいことがあります。医師が診察した後、重症でないと判断された患者さんに関しては、中部地区内外の病院へ転院して頂く場合があること、 非常に患者さんが多い時は待ち合いのソファーや簡易ベッドなどで経過観察を行う場合もありますのでご了承頂きたいと思います。

ほーほーほー!! ですよ。

救急車や患者が困らなかったり労力が小さくて済むだけではない。このシステムなら県立病院に拠点機能ができるのだ。

病院間連携もピアピアではなく県立病院がハブになる構造だから、コロナ対応で一元管理のシステムを臨時に立ち上げたい、なんてときにも、常にやり取りしてる間柄だから信頼関係があるわけだ。

待合のソファーや簡易ベッドなどで経過観察を行う場合があるというのもすごく良い。救急車で待たされるより100倍はよい。ちょっと感動してしまった。

(ところで、内地では「医療崩壊は静かに起きる。なぜなら満床になれば患者がまったく運び込まれなくなり、救急車の音なんかも聞こえてこなくなるから」という話をよく聞くようになったけど、これは沖縄には当てはまらないわけだ。拠点病院がいかにも医療崩壊という感じに患者だらけになるから。)

システムづくりは日本人がメチャメチャに下手でアメリカ人はメチャメチャに得意というのがあるにしても、これはもう圧倒的に全国をこのようにしたほうがいいよね。

システムという家を自分で建ててその中に住もう。それが民主制である。

西和彦『反省記』

西和彦が『反省記』なる本を出してたことを知ったので早速買ってきた。これ、コンピュータ史のミッシングリンクがはまっていく前半も、無茶苦茶になっていくアスキーの様子が彼の悪行含めてガンガン描かれてる後半もたいへん興味深く、一気に読んだ。

西和彦アスキー(月刊ASCII)と工学社(I/O)の両方を創業し、日本の初期のパソコンブーム(8ビット時代)に参入した多数のメーカーのパソコンのほとんどすべてにマイクロソフトのBASICを入れ、一時は米Microsoft本社のボードメンバーで副社長だった伝説の人物である。

アスキーは70年代後半から2000年頃までの会社だが、初期からずっと日本のパソコン業界のオピニオンリーダー的な役割を務め、上場前後の一時は時代の寵児的な扱いでビジネス界隈にも広く知られた存在だった。

オレはアスキーの雑誌で育ったコンピュータ少年で、小学校の高学年からASCII誌を読んでいた。近所の大型電気店のパソコンコーナーは、壁際に一列に並べられた各社のパソコンが常時電源の入った状態で置かれており、背面には雑誌や書籍が積まれていて、オレらはパソコンをいじったり雑誌を読んだりしてた。というか、どんどんエスカレートして書籍を読みながらパソコンをいじったり、自分のカセットテープを持ってきてプログラムを交換したり、紙に下書きしてきたプログラムを入力したりして、めちゃめちゃ自由に好き放題遊んでいた。これが80年から81年くらい。

当時しょっちゅうつるんで遊んでた友人の吉岡太郎(Apple][ j+を自宅に持っていた。オレは彼の影響で中学の時にApple][+のコンパチ機を組むことになる)が「読むならASCII、買うならI/O」と言っていた通り、ASCIIは読み物が高踏的で、みずからも専門家だった編集者たちの技術者としての思いなどが満載の「手の届く大人の世界」で非常に刺激を受けた(TBNがすごく好きだった)。I/Oはプログラムのソースコードが、特にゲームのそれが解説とともに数多く載っている実践ベースの雑誌で、実用性が高かった。

西和彦は当時からアスキー出版の創業者として(ASCIIの誌面上では)有名だったが、その頃にはもうまったく表に出てこない存在になっており、伝説の人物だけど具体的には何が凄いのかまったくわからなかった。

当時の動向も含め、彼の目指していたところは本書でわかった。

オレについてはその後中高と進むにつれ、Login誌(これもアスキーの雑誌なのだ)に載ってた鹿野司『オールザットウルトラ科学』などの影響も受けてコンピュータ技術よりはサイエンスの方に舵を切るわけだけど、アスキーという会社については、やはり80年代前半のイメージが強い。

90年代に「妙にすごい会社」という扱いでビジネス界に受け入れられていく姿には、自然な成り行きとはいえ微妙な気持ちがあった。まただんだんマトモになっていくのでは、みたいなことを当時は考えていたわけだけど、なんか100%間違ってたみたいだねえ…なんてこともこの本でわかる。後半の西社長時代の話はだいぶひどい。

全体的に言えば、めちゃめちゃで面白い本でした。

当時に思い入れのある方、オレ同様のコンピュータ歴史オタクの方にはたいへんオススメです。

(小島編集チョって亡くなられてたんですね。あと、オレが一番好きだった82年頃の月刊ASCII宮崎編集長も一緒に会社を去ってたのを初めて知った)

 

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引っ越し以来出してないけど未だに持ってる月刊ASCII


反省記 ビル・ゲイツとともに成功をつかんだ僕が、ビジネスの“地獄"で学んだこと

パソコン創世記

未来をつくった人々―ゼロックス・パロアルト研究所とコンピュータエイジの黎明

Yoのけそうぶみ

 

計測できるものは計測せよ。できないものはできるようにせよ。

代議制の陥穽としての組織票、あるいは無関心層の存在は大きな問題だ。民主制とは参加であり、その成員の総意による意思決定がなされなければならない。現状の制度がどうであれ、長期的には正確に民意を反映するように不断の改善を続ける必要がある。

そもそもサイエンティフィックに考えれば、投票が操作されて民意を測定できないという状態は単に計測の失敗であり、データが余計なバイアスを受けているということであり、つまり大失敗だ。

現代日本ほど計測が簡単にできるはずの環境で、そもそも「投票率」なんて言葉が当たり前に流通してるのが悪い。交通の不便な昔の環境でどうしても投票できない人たちがいたのは仕方のないことで、その状況を可視化し、改善していく指標として使うならともかく、低ければどこが有利のように、計測の失敗が結果に影響することを放置して当然と考えている状態は非常に不健康だ。

そういえば、アシモフはこの件についても非常に先進的な小説を書いてて、『投票資格 Franchise 』って作品がある。(『地球は空き地でいっぱい』所収)

この短編の舞台である未来のアメリカでは、大統領選の投票者(選挙人)が、ただ一名の人物となっている。

しかも、その選挙人は直接候補者名を投票するのではない。彼がマルチヴァク(アシモフ世界に出てくる超コンピュータ)と、一連の、政治とは関係がないものを含む多数の問答をし、その結果や問答時の彼のバイオメトリーの変化をマルチヴァクが計測して、その全体を勘案することにより選挙結果が算出されるのだ。

小説は、その選挙人に選ばれてしまった平凡なデパート店員の悩みや葛藤、生活の変化なんかを描いてるんだけど、これ、アイディアとしては「統計的標本抽出の究極の形は1サンプルで十分かもしれない」じゃないかと思う。

そしてこの小説の問題意識そのものも、民意の計測としての選挙をどのようにすれば正確に行えるか、ではないだろうか。化学者として長らくボストン大の准教授の地位を保持していたアシモフが、民主制のこの部分の脆弱性について考えて、極端に言えばこういうのも可能だよね、と考えたがゆえの作品であるように思う。

無作為抽出の問題は、その無作為性が常に疑いの的になることだ。正確に無作為抽出された1%の住民による選挙は、おそらく正確に民意を反映する。しかしその無作為抽出の過程に人間が関わる限り、それが本当に無作為で、惜敗で落選した候補者が本当に自分は支持されていなかったかを疑うことを止めるのは不可能だ。アシモフの作品ではここにマルチヴァクという、人知を遥かに超えた超コンピュータを介在させることで、だれもがその結果に納得する(ただし選挙人はボコボコに言われる)社会を成立させているわけだ。

いまの選挙制度を民意の測定方法として考えてみよう。それはあなたの社会を正確に反映するものになっているだろうか。改良の余地はどこにあるだろうか。

たとえば、投票が強制ではなぜダメなのだろうか。

考えてみてくださいね。

Measure what is measureable, and make measurable what is not so.
Galileo Galilei

 

 

 

バアーシイ海峡

当地沖縄は、感染が高レベルで推移しやすい自治体の中では、おそらく全国トップレベルの対策をやってます。沖縄は人口あたりの急性期病床数が常に不足するという医療事情がありながら、春に大阪・神戸より高いレベルの流行があっても、今回のようにインドのピークを超えるレベルの波にさらされても、おそらく超過死亡はほとんど増えてない。

しかし、今回の流行は毎日の新規陽性者数が本当に減らない。

発病から新規感染者として確定されるまでの日数はだいたい決まってて、これは県の毎日公表するCSVファイルを追っていくことでわかります。この日数に感染から発病までの平均日数を加えると、「この日の数字が何日の感染によるものか」というのが大まかに推定できます。

これを使って、昨年春からの各流行における新規陽性者数が減少に転じるタイミングを推測してみると、たとえば「流行の立ち上がりから二週間目」のようなファクターは特定できません。感染者の出方は地域によってぜんぜん違ってて、いつまでも増え続ける場所もあれば、さっと鎮火する場所もある。

オレが見てて唯一それらしく思ってる減少ファクターは、「ショッキングな感染者数が報道された翌日から」というもの。これは非常に人間的な要素で、要するに、びっくりして行動を変える人が増えるとピークを付け、減少に転じてもしばらくは数字には出ないのでブレーキが掛かり続け、それによって流行が終息してたように見える。

ところが、今回の流行では、たとえば「いきなり300人超え」が報道されても、「これまでの最多感染者数」が報道されても、まったく減らない。いちおう、下に凸なカーブが上に凸なカーブになり、その傾きもだんだん寝て、倍加時間は少しずつ伸びているではあります。でも、それだけ。週あたり2.5倍だったのが2倍になり、昨日の572人で週に1.5倍、今日の548人で1.25倍弱まで減速してるだけです。

減速はしても減少はしていないということは、毎日たくさんの人が感染しつづけている、ということです。

沖縄の対策は、コロナ対応病棟の増え方も、在宅医療体制の構築についても、「対処可能人数が掛け算で増えていく」に近くて、これまでの流行にはなんとか対応できてきました。しかし、掛け算は足し算よりは強力であるにしても、本寸法の指数関数には絶対に勝てません。

沖縄ですらこの状況なのに、これまで感染数の少なかった普通の自治体で病床を掛け算のように増やしていくのはまったく無理で、東京などでも足し算的にしか増えない現状があります。

ここで国が補償金を出しまくったり、強いメッセージを出したり、ワクチンを傾斜配分したり、できることは何でもやって医療崩壊を防ぐぞ、死者を増やさないぞ、といった態度を「まったく」示さないのはどういうことかと思います。

指数関数といっても限界があって、たとえば感染者の上限としては(人口-ワクチン接種者数-既感染者数)があるではあります。

でも、それに寄りかかって対策を怠れば完全な失敗が待ってます。ワクチンはまだ過半数にすら行き渡っておらず、集団免疫的な感染抑制の決めてにはなりえない。短期的には他の方法を取るしかないのに、自民党首脳部はワクチンに気を取られて高をくくっているところがある。

政府がこうした数字の皮算用でだいたい分かったような気になって、本気の何が何でもの対策を怠るというのは、『虜人日記』にある「『バアーシイ海峡の輸送は三割比島に付けば成功ですよ』という軍首脳」の言いぶりと本質的に同じです。

これはフィリピン防衛のための輸送の際に、武器も食料も持たない兵員を満載した輸送船を送り出し、台湾とフィリピンの間の海域(バシー海峡)でアメリカ潜水艦に沈められ続けた失敗を言ってます。海に沈むことを見込まれて送り出される「七割の者にとってはたまったものではない」。

その恐ろしさを体験した山本七平は、『虜人日記』をフィーチャーした著書『日本はなぜ敗れるのか ---敗因21ヶ条』で次のように書いています。

そして「危機の叫び」と「あやし」のバランスで成り立つ「虚構の子守唄」は、本当の危機すなわち「脱出路」の入口まで、各人を眠らしている。そして整々と脱出路まで導かれた者が、ある状況を目にした瞬間、一切は虚構で、現実にはすべてがすでに終っており、自分たちはただ “ 精算されるために ” そこにいるにすぎないことを知り、冷水をあびせられたように慄然とする。それがバシー海峡であった。

緊急事態といいながら、なりふり構わないほどの対策はまったく施さない、指図だけして頭を引っ込め、嵐をすぎるのを待つ閣僚たち。

粛々と死のベルトコンベアーに乗せられる列に並びながら子守唄を聞きまどろみ、状況に突如気づいて慄然とする庶民たち。

これ、いつまで続けるんですかね。自分と共通の戦略目標を持ってないことが明らかな「われわれの代表」を、あなたはいつまで国会に送り続けるんでしょうか。

 

 

虜人日記 (ちくま学芸文庫)

日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)

アミノ酸を繋いだ紐で何ができるか

学生の時に勝手にやってたCellゼミで、タンパクの折りたたみ推定の難しさの話が出たことがあるけど、あのときの印象では自分が生きてるうちにコンピュータで何とかなる日が来るとはとても思えなかった。現代科学ってものすごいよね。
www.itmedia.co.jp

ただこれ、ふつうの人の反応を見ると、タンパクの折りたたみが簡単に解析できるようになることの素晴らしさが、イマイチ伝わってないような気がする。これって単に難しいことがついに出来るようになりましたという一里塚じゃなくて、科学的にも応用的にもメチャメチャ素晴らしいことなんだよね。

たとえば現在ホットなトピックで言えば、SARS-COV2のスパイクタンパクが、変異によってどんな立体構造を取りうるか、なんてのも楽に安価に推定できるようになる。これを総当りでやっておけば、免疫逃避や標的タンパクの変化といった危険な変異を「事前に」特定するようなことができるようになる。いまやmRNAワクチンという技術があるので、事前にプロトタイプワクチンを作っておくとか、臨床試験を前倒しすることも視野に入れられるだろう。まだ存在してない病気に対応したクスリ作っときました~、って、ものすごい未来技術っぽくない?

なんでこれほどインパクトのあることが、そんなに注目されないのか不思議だったんだけど、これ、普通の人ってタンパクがどんなふうに機能してるか知らないから、立体構造の重要性がイメージしにくいのでは? と思い浮かんだので、ちょっと書いておく。例によって例外とかいろいろすっ飛ばした大まかな話なので補足してくれる人があると嬉しい。

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大喜利の国

読んだ。

www.tokyo-np.co.jp

オレはこういうの、裏切りというほど悪意があるとは思ってなくて、たんに無能なんだと思ってる。

たとえば、変異株の伝播速度とワクチンの接種速度の競争になるのは春から明らかだったのに、ずーっとどっかしら変なことやってるのは、やっぱり自民党の指導部が感染症の性質をまともに理解できてないからだと思う。彼らは最高の情報を得られる立場にありながら、専門家の言うことを話半分に聞く。

供給のドタバタについては、危険度順の地域接種からコネ順の職域接種に軸足を移したのがそもそもの間違いだと思うけど、同じコネ順でも、たとえばオリンピック関係の人たちをめちゃ早期に優先接種するくらいの有能さは、あっても良かったんじゃないかと思う。ボランティアの人たちが既に棄民扱いで見ていられない。

河野太郎自民党の中では説得力のある方だと思うけど、彼ですら「現状を正しく説明する」というよりは、「うまいこと言えば言い抜けられる」をやりがちなのが困る。

たとえばモデルナとの守秘義務がという言い訳は、たぶんtwitterでツッコまれた誰かに対しては有効だったんだろうけど、本当に単なる言い抜けだった。これは「なぜ政府レベルでも情報を伏せ、地方に無駄を強いたか」という話なんだから、守秘義務の話は関係ない。情報を伏せられてた出先機関や地方役人なんかから見れば、バカバカしい限りだろう。

で。

この、どんなことでも「うまいこと言う」を目指してしまう思考の偏りが、感染症対策のようなサイエンティフィックなトピックで、彼らが(われわれが)無能になる原因に思われてならないんだよね。うまいこと言うには本質を外す必要があるから。

これを逆方向から証明してるのが、「うまいことしか言わない人」がもてはやされて、司会者やコメンテーターとして重宝される風潮だ。世の中に有能な人は山ほどいるけど、当意即妙の空気を読んだコメントを連発できる反射神経の持ち主だけがテレビでは生き残る。

われわれは、たとえばお笑いとかで「うまいこと神経」を鍛えすぎてるがゆえに、ベタベタの胸のすかない事実を言う専門家の言うことを正面から受け止めきれないところがある。これはたとえばノーベル賞受賞者の報道なんかを見ても明らかで、対象となった業績の時代背景や科学的な位置づけ、どうしてそれが画期的かなどを正面から取り上げた、一般にわかるような報道ってぜんぜんない。

 これも本当に危険だと思うんだよね。「うまいことしか言わない人たち」って、どんなトピックに対しても常に本質を捉えてるような顔をしてるけど、専門性はぜんぜんないから(あるいは、普通の専門家同様、自分の専門しか知らないから)、印象的な情報から普通の人が導きがちな間違った解説を、高い説得力で供給してしまう。

ぎりぎりの事実を正面から見据えて取捨選択して積み上げない限り、自然の本質なんか見えてこない。そしてわれわれが相手にしているウィルスによるパンデミックとは、妥協も疲れもなく単に環境に合わせて増えたり減ったりするウィルスと、どんな対策をしても統計的にしか反応しない人間社会という、まさに自然物同士の関係によって生まれるものであり、自然が見えない人が資源配分していては、うまく対策できないのも当然のことだろう。

(ちなみに、それを言うなら、いまや多様な価値観に支えられた社会そのものが自然物だから、昔ながらの日本人を支配することに特化してる旧来の支配層のスタイルそのものが時代遅れだ。)

トランプのジョーカーが強いのは、「道化だけは王様を笑い者にしてよい」という決まりがあったからだと聞いたことがあるけど、あれは「ジョーカーはホントは3にも負ける札である」という形でバランスが取られてる。日本の現状はうまいこと言う順で序列を築いてるくらいなので、カードゲーム以下だ。