死亡者数から推定する感染者総数

ちょっと思いつきでグラフを描いてたら怖い話になってしまったので共有します。

どこかしらおかしいところがあるはずなのでチェックしてください。データは https://docs.google.com/spreadsheets/d/1hR6IptMeCT0MSVG9crQQ3qztnfGcLk2WFPof_mbu7ac/edit?usp=sharing のシート1の右の方にあります。グラフは3枚目のもの。(左の方&1枚め2枚めのグラフはいつもの致命率推移にまつわるもの。)

経緯

次のようなことを考えた:

  • 日本のクラスター対策戦術は検査を絞るので全体像が見えなくなる。
  • それでは逃げようのないデータから全体を推定してみたらどうだろうか。
  • 逃げようのないデータは死亡者数だ。特異的な病態によりCOVID-19と診断された方が亡くなれば、これは必ずカウントアップされる。

死亡者数から感染者数を推定するために必要なデータは、感染者数と死亡者数の数字である。これは日本の医療環境に即したものである必要がある。

またこのデータは、適度に古い必要がある。死亡までの期間はまちまちなので、「結果を最後まで追ったデータ」が必要である。

この条件に適合したデータは存在している。ダイヤモンド・プリンセスだ。712人が感染して11人死亡。致命率は1.54%となる。高齢者中心なので社会全体にフィットすると死亡率はもっと低くなると思われるが、高くなることも考えられるので、仮に1%〜2%と考えて推定を試みるものとする。

方法

感染から死亡までの時間を平均3週間とみなし、一律に適用した。

COVID-19による死亡率を1.0%、1.5%、2.0%と仮定して、報告されている死亡者数にこの死亡率の逆数を乗じ、死亡率ごとの推定感染者数を得た。

これを報告日の3週間前の日付に割り当て、片対数の折れ線グラフとしてプロットした。

グラフのX軸の原点は、日本で死者が初めて出たのが2/14の3週間前である1/24である。Y軸の原点は100人(死亡率1%での1人目の死亡者)とした。

結果

以下のグラフが得られた。

f:id:kamosawa:20200405131750p:plain

死亡者数のみから推定した感染者数の推移(詳細は本文参照)

曲線は死亡者数から推定した感染者数である。死亡率1%として推定した値(死亡者数*100)を青の、死亡率1.5%として推定した値(死亡者数*(100*2/3))を緑の、死亡率1%として推定した値(死亡者数*50)を赤の実線で示している。

点線は7日間で2倍および3日間で2倍になる値を示したものだ。7日間で2倍になる直線については、推定感染者数の最小値に合わせたもの(赤)、最多値に合わせたもの(青)、両者の中間に合わせたもの(緑)を置いている。

 グラフの値からは次のことが判明した:

  • 本日4月5日の最小値、中間値、最多値(直線上の値)はそれぞれ26880.74895、65536、159778.5577 である。
  • すなわち、死亡者数から推定した現在の感染者数は、およそ2万7千人(最少)から16万人(最多)、中間的なシナリオで6万6千人ほどになる。
  • 一ヶ月後、5月5日の最小値、中間値、最多値(直線上の値)はそれぞれ524288、1278228.461、3116355.895である。
  • すなわち、死亡者数から推定した5月5日の感染者数は、およそ52万4千人(最少)から312万人(最多)、中間的なシナリオで128万人ほどになる。

考察

4月5日の推定感染者数である2万7千人から16万人という値は、既存のどの値よりも多いようだ。

7日に2倍という割合そのものが高すぎる可能性もあるが、この値は日本以外で得られている数字よりはかなり小さい。

  • 死亡者数、ひいては推定感染者数は、初めから7日で2倍の指数関数の線におおむねフィットしている
  • ただし諸外国で得られている3日で2倍という線にはフィットしていない

と考えることがそれほど過激であるとは思えない。

他の見落としはないだろうか。

  • 病原体の再生算数は時間とともに変化し、感染者数が十分に増えれば増加は鈍る。しかし数万人から百数十万人では日本の人口のせいぜい1%程度であり、指数関数的増加が成立しなくなる段階ではない。
  • イタリア等では人口のそれほど高くない割合への感染で増加が鈍る現象が観察されているが、感染初期の日本にこれが適用されるようには思えない。
  • 日本の医療レベルを考えると、ウィルス固有の死亡率を高く誤認する(不顕性感染が多い)ことはあっても、低く誤認する(他の疾患による死を混入する)ことはないだろう。しかし、実際の死亡率がより低かった場合、推定感染者数はさらに多いということになる。

つまり、見落としがあるとしても、推定感染者数は得られた結果より大きくなる要素ばかりに見える。小さくなる要素がない。

だからいまのところ、死亡者数から推定した感染者数はこのような値になる、としか言えないようである。

わけのわからない値が出て困惑気味であるが、それほど大きく外しているとも思えない。日本の感染者数は既に数万のオーダに乗っているのではないか。

みなさん、どう思われますか?

正しい給付とは

4月3日、ついに現金給付の枠組みが決まったようだ。

現金給付、1世帯30万円に 対象は月収で絞り込み :日本経済新聞

あかん。これじゃあ死者がいっぱい出る。

もちろん、金額を30万円としたのは、当初の10万円などと比べると、かなりの改善だ。1ヶ月くらいは安心できるだろう。
しかし給付条件を絞ったこと、給付の枠組みを作りにいかなかったこと、定期給付にしなかったことは失敗であり、今後に枷となるだろう。

それぞれ何が起きるか見てみよう。

給付条件を絞ったこと

支給対象とする月収の水準について、政府は夫婦2人の世帯の場合、25万円未満とする案などを与党側と調整している。

生活資金がかさむ子育て世帯は子供の人数に応じて基準を緩め、生活資金が少なくても暮らせる単身の場合は厳しくする。子供1人あたりの増減額は与党と今後詰める。

新型コロナを原因とする所得減について政府側が判断するのは難しいため、市町村の窓口への自己申告制とする。収入減少を証明する書類を提出すれば原則支給を認める方向だ。給付金は特例措置として非課税とする。

給付条件を絞ったデメリットは2つある。1つは事務コストが大きくなること。もう1つは給付された人とされない人の間に分断を生むことだ。

まずは事務コスト。所得条件を絞り、人数基準を作り、増減額を調整し、収入減少を証明する書類を求め…アホかってレベルの精密さだ。

これにまつわる事務コストは誰が払うと思っているのか。

官僚が事務コストに無頓着なのはいまに始まったことではない。彼らはしばしば全国アンケートを取る。県レベルに取りまとめを依頼する。基準をちょっとだけ変更する。

国民の方もあまりわかってないと思う。「事務コスト事務コストと言うが、計算はシステムでやるんだから大したことないだろ」と思ってる方も多そうだ。どうかすると、「申請者がちょっと電卓叩くだけでは?」などと考えてる方もいるかもしれない。

しかし日本における事務コストとは、基礎自治体で、末端職員が、命で支払うものなのだ。

初等中等教育においては、官僚の出した「簡単なアンケート調査」は、教師が放課後に処理しなければならない事務仕事となって降ってくる。残業代も出ない彼らがOECD最長の勤務時間に悩まされる二大要因の片方が事務仕事だ(もう片方は部活)。先生方のブラック労働を知らない方は居るまいが、あれは官僚が事務コストに無頓着だから起きているのである。

そして今回のように、給付を自己申告制にして細かい基準を作った場合には、もっとひどいことが起きる。現場レベルに「間違った書類を上げてはならない」という了解が生まれるのだ。

現場での書類チェック体制というのは、もともとはごく簡単なミスを防ぐことで、上流レベルでのチェックに負担をかけず、利用者にも速いレスポンスが返せるという優れた仕組みであったのだろう。

ところが、どこまでチェックするべきか、というのは時代によって変化する。80年代に役所と書類のやり取りをした方は、窓口でのチェックがほとんど行われていなかったことを覚えているだろう。名前住所の確認程度で申請した書類が、後日に不備によって戻された経験をお持ちの方も多いはずだ。

しかし現代の自治体では、提出「前」に窓口の手前にいる職員に見てもらい、完璧な書類しか出させてもらえないのが普通だ。

ここに今回のような給付事務がふってきたらどうなるか。

あいまいな基準に対して完璧な書類を求められるのである。それも、誰がウイルスを持ってるかわからない環境の中で。

基準が曖昧であれば、1人の処理にどれだけ時間がかかるかわからない。隣に座ってウィルスだらけの書類を繰り、電卓叩いて確認し、不備を指摘されて怒る申請者に平謝りさせられる。そのストレスのコストは?

そもそもどれだけの人数が来るかもわからない。それでも相当な数になることだけは確かだ。

現場が持つとは思えない。彼らは次々に消えていくだろう。過労かウイルスか辞職によって。

この巨大なコストは戦略的な間違いによって生じる。規模の大きい施策は絶対に簡素であるべきなのだ。

 

給付された者とされなかった者の間の分断も、かなりの悪影響を及ぼす。

今回のような広い給付を選択的に行った場合、給付を受けなかった世帯には"上流階級バイアス"が生じる。これはわかりやすく言えば、高級車に乗ると運転が荒くなる効果だ。

生活に余裕のある家庭も、普段はそのことを意識しないものだ。『東大生は自分のことを貧乏だと思ってる』という匿名ダイアリーがあったが、こうした家庭は自己認識からしてこういうものであり、自分たちに余裕があるとは思っていない。

こうした家庭は、特に地方の地域社会では、成績の良い子を持つ優秀な家として一定の規範の手本となっている。これも意識されていないことである。

ところが給付について、受ける、受けないが生ずれば、「自分たちは受けなかった側である」ということを意識しないではいられない。優秀なご家庭のモラルが低下するのだ。

今回のような全員参加の長期持久において、これはどれだけの悪影響を及ぼすだろうか。

給付を受ける側にもデメリットが有る。

たとえば、日本は嫉妬が恥ずかしい感情とされていない国なわけだが(これはとても恥ずかしいことだ)、学校などで「30万円もらったと噂される家の子」が出た場合、どんな雰囲気になるか想像できないだろうか。これは望ましいことではないだろう。

そしてこうした扱いを回避するために、必要なのに貰わない、という選択をする家庭が出るとすれば、政策の効果が減衰してしまう。

政府が給付金を「節約」するために対象を絞ろうとすれば、節約した金額以上に政策の効果が減ってしまう。給付は全員に行うべきなのだ。

自治体職員の命を犠牲に、政府の出せる限界まで配った挙げ句、効果が小さく封じ込めまで失敗するのでは踏んだり蹴ったり煮たり焼いたりだ。

 

枠組みを作りにいかなかったこと

これも事務コストの問題である。

決まった額のお金を、全員に、定期的に配るなら、お金を電子的に送りつける仕組みが必要になる。これは口座番号の登録でもいいし、「個人番号カードを入れるとお金が出る」というアイディアがあったが、そうした簡素な方法が取れるなら、その方がいいだろう。

これには事務コストがかかるが、1度仕組みを作ってしまえば、あとはいつでも全員に、お金が配れるようになる。

ところが「一度限りの支給」で「対象者の申請時点の状態」によって絞るとなると、そこで支払った事務コストは1度きりしか使えない。

立法、予算措置、現場での選別、申請者の書類書きといったすべての努力が使い捨てになるのである。

先が見えないコロナ対策だけではない。先が見えない経済停滞・低成長と職業消滅と格差拡大の時代である。お金を配るシステムは必ず必要になる。

今回のような非常の必要時に作らなかったら、いつ作れるようになるのだろうか。

 

定期給付にしなかったこと

これは将来の見通しに効いてくる部分である。見通しは生活の保証と景気の下支えと、市場を通した経済の健全な発展に関わる。

条件を絞ったワンショットの給付だと、「もらえたのはラッキー」であり、食い延ばすことを考えなければならない。まずは貯金だ。

ところが定額を定期的に全員に配布し、その制度が長く続くことを保証すれば、そのお金は「使っていいもの」になる。これが大きい。

月に決まった額が入ってくると期待できる状況は行動の自由を生む。再開の見通しのつかない仕事にしがみつく必要がなければ、新しい仕事に移るのが楽になる。

供給側のメリットも大きい。購買のハードルが下がるからだ。いわば全産業に出された補助金のようなものである。

競争力のある商品を作り、新しい産業を成立させるには、効率的市場(に近いもの)が成立しており、その中で競争が行われ、自分の選択で購買する数多くの主体が必要だ。

つまり、需要側の精度においては個人単位の選択が一番優れたものとなる。

逆に決まった商品にのみ補助金が出るような形を取れば、補助金がもらえない業界は選択される機会がそのものが減ってしまう。市場が歪むのだ。

使っていいお金を配り、全員に自分の責任で選択してもらうことで、「不要不急」の産業を自動的に、競争力を損なわずに生かしておくことができる。

これはコロナ後の世界の国際競争に確実に必要になる。一度殺してから再生するよりずっと楽だ。

 

その他

給付金は特例措置として非課税とする。

これも余計ですよね。給付が十分にあれば経済は回るし、税も取れるというのに。

給付を収入源の補償とするなら、一律で配っておいて、来年の申告書式に定額をプラスする欄を1個作るだけでよい。税率の調整は必要になるが、この部分の事務コストは計算機処理できる。窓口職員が命で払う必要はない。

消費税も取れる。むしろ拡充しても良いくらいだ。

消費税というのは、単独では逆進性の高い税であり、また日本ではやらずぶったくりの運用がなされているので、庶民にはなんのメリットもない税だと認識されている。

ところが、消費税の実質的な負担を決める消費性向は、所得によっておおむね決まっている。消費額もだいたい決まっている。一般に低所得ほど消費性向が高く、高所得ほど消費額そのものが多いのだ。

これによる逆進性は、一律の給付と所得税の調整によって綺麗に相殺できる。消費税は本来このように運用すべきものなのだ。

そうなれば、景気動向や所得把握に依存しないという間接税のメリットが生きてくる。

給付とセットの消費税であれば増税に賛成なくらいである。


前から言ってる通り、ベーシックインカムにすれば、最小限の事務コストで、収入減をきちんと補える。

今回の措置の額と枠組みでは1回限りの給付であり、今後の見通しが利かない。収入予測に効いてこないので社会不安は減らない。分断も出る。事務コストも使い捨てで、対策失敗の原因にもなりかねない。競争力の維持も景気の下支えもできない。次の施策の自由も減る。

もっと低額を一律で毎月配り続けるべきなのだ。消費税含め減税はする必要ない。変えないで済むところは変えないべきである。

いま行動を変えてほしいのは膨大な庶民なのだ。配るべきは「安心」ではないだろうか。

クラスター対策は優れた戦術だけど戦略がなければ必然的に破綻する

経済対策はベーシックインカムしかないよね、だって個別の補償をしてたら手間も議論も爆発しちゃうし、自分が問題なく生きられるという予測がないと安心して消費することはないから、という話を書いてしばらく経った。

その後の展開に驚いてる。だって、お肉券だよ。一回限りの給付金だよ。「やはり世論が求めるものも消費減税」だよ。

政治レベルですら先の見通しがなく、単発の対策を積み重ねることしか考えてないことに恐怖を感じる。

一番不思議なのは財務省で、経済学的に見れば明らかな需要の欠落を埋めにいかず、まだケチケチとした節約に走ってるフシがあることだ。

彼らがマクロ経済の知識に基づいた行動を取らないということがあり得るのだろうか。いまのミッションは「財政破綻してでも死者を救え」だと思うんだけど…。

 

さて本題。

クラスター対策さえしてればよい」という理屈が、実はオレにはよくわからない。

クラスター対策が理解できないというのではない。情報はいろいろある。

たとえばクラスター対策班設置の厚労省報道発表や、これに添付された資料には、「患者クラスター(集団)が次のクラスター(集団)を生み出すことを防止することが極めて重要」「いかに早くクラスター発生を発見し、具体の対策に結びつけられるかが感染拡大を抑え事態を収束させられるか、大規模な感染拡大につながってしまうかの分かれ目」とある。

大部分の患者が二次感染を起こさず、一部の患者が発生させたクラスターの寄与が大きいという感染の様態から、これが重要なことは理解できる。

わからないのは、これに頼り切った対策の姿勢である。どこかでゲームチェンジが必要なのは明らかに思えるのだが、その様子が見られない。

 

クラスター対策は、本質的には「患者発見の効率を上げる方法」だ。

まず、これまでの分析によれば、クラスターは環境条件により発生するものである。クラスターの各メンバーについては、次のクラスターを発生する確率に大きな違いはない。これは孤発例の患者についても同じことだ。つまり、すべての患者のクラスター発生の事前確率は仮想的に同じだが、事後的には大きな分散を持つ。

つまり、クラスターを把握することが重要なのは、

  1. クラスターに存在する人数が単に多い
  2. ゆえに1人あたりにかかる発見時間を短縮できる

からである。

しかしこれは、戦略全体から見れば、「対策の効率が上がっている」だけの話にすぎない。この方法が間違ってるというのではないのだ。限られた資源を前提にすれば、このような高効率の方法は必須である。

でも、戦略目標はあくまで「新コロナウイルスによる不幸を最小化する」である。

そのうえで現在取っている作戦は「なにがなんでも抑制し、薬ができるまで持ちこたえる」である。

クラスター対策をおこなう」は、戦術級の話なのだ。

 

ところが、この戦術級の対策が、日本政府のおこなう対策の実質的なすべてになってしまっているフシがある。

3月28日午後6時の首相会見をご覧になっただろうか。

オレはこれ、リアルタイムで聞きました。なにしろ、把握される患者が爆発的に増え、東京都は患者数が隔離病棟ベッド数を大きく越えた。ここまで重大な局面になっているのだから、懸念されてきたさまざまなことを一気呵成に片付けるような会見をせざるを得ないだろう、と思っていたからだ。いつもは報道で済ませる内容把握を視聴に切り替えた。

しかしここで発表されたのは、いつもの自画自賛的な美辞麗句と「貸付枠を増やす」「文化にまつわる補償はしない」「給付は具体的には何も決まっていない」といったことだけだったのだ。すごくびっくりした。

感染対策に関しては、「爆発しかねない状況」と定めた上で、「水際対策を強化しました」「ご協力をお願いします」である。「検査を100倍に増やす」みたいな、ゲームチェンジを予感させることについては何もなかった。

つまり、クラスター対策班は、このままずっと、増大し続ける患者に対応し、同じような仕事を続けていかなければならない、ということになる。彼らは大丈夫なのだろうか。

 

クラスター対策班の組織図(リンク先3ページ目)を見ると、リスク管理チームに東北大学、データチームに国立感染症研究所、データ解析チームに北海道大学を抱え、これが日本の感染症対策ドリームチームであることがわかる。

ドリームチームであるということは、あとがない、ということでもある。

クラスター対策によって検出できる患者の人数は、

 検出主体の量(対策班の能力)x 検出効率

で決まる。

対策班の拡充がなければ、この値(検出上限)は一定なのだ。

ところが患者数の増加は止まっていない。それどころか、指数関数で増えることが予想される。

定数で指数関数と戦うことは不可能であり、つまりクラスター対策班の仕事は、このまま行けば必然的に破綻する。

それは突然来るわけではない。観察できるのはデグレードだ。「一定の時間内に感染リンクを追えなかった例」が出始め、「リンクを追うことを諦める孤発例」「途中までしか追えないリンク」から「追えない小規模クラスター」に繋がっていくだろう。

日本が今後もクラスター対策で戦うのであれば、クラスター班の拡充が、それも指数関数的な拡充が必要である。

これは中核メンバーによる検出効率をできるだけ保ちながら検出能力をコモディティ化する必要がある、ということだ。具体的にはハイレベルなメンバーのさらなるスカウト、マニュアル化による仕事の代替(効率は落ちるが人数は使える)、ノウハウのソフトウエア化(主要メンバーの時間という資源を大きく使うが見返りも大きい)などがあるだろう。

こうしたことができなければクラスター対策の崩壊は必然であり、だからクラスター対策班のメンバーがいままっさきにやるべき仕事は実は、「みずからのコピーを増やすこと」である。

しかし彼らの現状はといえば、「みずから動くことに忙殺される」である。働くためのプロジェクトチームなんだから、そうなることは必然だ。

そして現状、クラスター対策とは日本の対策のほとんどすべてである。彼らが倒れたらどうするのか。あぶなっかしくてしょうがないではないか。

 

破滅は約束されているわけではない。「なにがなんでも抑制し、薬ができるまで持ちこたえる」に視点を上げれば、できることはいくつもある。

クラスター班の拡充はそのひとつ。他には検査の範囲を広げたり検査を迅速化することで検出効率を上げるというのもある。クラスター班の仕事を減らせば、今度こそ拡充の余地が出る。

病床数を緊急に拡充する、というのも必要だろう。ICUも隔離病棟も、あればあるだけいい。人工呼吸器もECMOも量産しておけばいい。それを動かす医療者がボトルネックになるが、感染は国内全域ではなく地域的にバラバラに爆発するのだから、危ない場所に人を動かせばよい。モノは余っててもいいというか、余っているべきなのだ。

効果的な経済対策により、人々の接触の必要性を下げる、というのもそうだろう。「呼びかけ」などでは動かない。カネの投入が必要だ。

しかし今のところ、そうした動きは見えない。

対策にかけられるはずの金額を考えれば、いちばん大事な対策班をどんなに徹底的に優遇・強化しても、端数のようなものだ(10万人の追加死亡ならリスク学的には80兆円くらい、という計算を前にしたが、実際にも数十兆規模の話は出ている)。

病床の拡充や機器の充実には時間がかかる。すぐに始めないと間に合わない。

なのに何もやらない。首相は「これから決める」としか言わない。

 

「基本的な見通し」というのは絶対に必要だ。

  • 戦略を決め、
  • プランを策定し、
  • みんなに周知して理解を求める。

この部分がすっぽり抜けたまま、この巨大プロジェクトが乗り切れるわけがない。

ドリームチームによるクラスター対策がうまくいっている今の状況は、ベテランパイロットと空母の集中運用で有利に戦った太平洋戦争の初期の姿にそっくりだ。

何が似てるかって、限定された、万能ではない、脆弱性が存在する資源に頼り切って戦争をしている、というところがそっくりだ。こうした弱点をカバーしなければ戦争に負けて、たくさんの人が死ぬにも関わらず。

昔と違う部分もある、今の日本なら、対策にかけられるリソース(カネ)はあるのだ。なぜカネで殴ろうとしないのか。理解に苦しむ。

現場の人に戦略的弱点をカバーすることはできない。これは「政治」にしか不可能なことである。

日本の政治が業界の要望する「お肉券」を提案してしまうようなボトムアップ構造を抜け出し、先に戦略を決めて構造的に問題を解決する(ie, ベーシックインカムの導入など)トップダウンの意思決定ができるようになるまで、どれだけかかるだろうか。

コロナは待ってくれないよ。

消費減税って失業者にはあんまり意味がないよね

消費税の減税を「コロナ対策下の適切な経済政策」のように唱えている人は随分いるけど、なんだか的を外してる気がしてる。

消費税減税が効くのは購買意欲に対してだ。ところが今後の推移を考えると、購買意欲の有無に関わらず、最低限の消費しかできない人が多数出る。なんの落ち度もない人たちが不幸になることを防ぐために社会システムはあるので、これは救済すべきだ。また社会不安はコロナ対策を失敗に追い込みかねない。

この状況に対処できる政策が必要であり、それはベーシックインカムだよね。というのがこのエントリの趣旨である。消費減税どこいった、という感じだけど、書いてたらこうなった。

COVID-19対策の影響

コロナウイルス疾患COVID-19には、医療崩壊を非常に招きやすいという危険性があり、現在有効な対策は封じ込めのみである。

この状況は、a. 治療薬またはワクチンができるか、b. 重症患者を治療できる医療資源が飛躍的に増えるかしない限り、集団免疫が獲得できるまで続く。

医療崩壊を起こさない感染数では、集団免疫の獲得に非常に時間がかかるので、実質的には治療薬やワクチンができるまで封じ込め策を続ける必要がある。期間は早くて1年半以上が見込まれている。

封じ込め策は産業に大きな影響を与える。1年以上続く封鎖は観光や旅客運輸セクターを壊滅する。興行は費用構造が悪化する。産業構造で言えば、一次産業には小さな影響しかないが、二次産業は需要低下によって甚大な被害を被る。三次産業はまちまちで、ここには通販、物流など業績が上向くことが期待されるセクターもある。

資産価値の毀損も甚大になる。業績不振による株価低迷、商品相場低迷によって高レバレッジファンドが破綻し始めている。これに端を発する信用収縮の影響は甚大である。また不動産については、テナント撤退による利回り価値の低下も深刻になることが予想される。堅実なのはゴールドくらいであろうか。

ライフスタイルは変わる。これほど長期にわたって生活が変化すると、その少なくとも一部が社会に定着する。特に社会の不合理によって普及が妨げられていた生産性向上策(リモートワークなど)は、コロナ対策が終わっても元には戻らない。

個人に対する影響は大きい。まず産業が破壊されるため、多数の失業者が出る。これは既に観光バス運転手の大量失業といった形で実現してしまっているが、労働需要そのものが減少するため、社会に広く広がるものと予想される。

社会不安は大きい。失業、生活不安、感染不安、移動の不自由はすべてストレスを増大させる。しかも出口はなかなか見えない。

これはコロナ対策を失敗しやすくする。自暴自棄に出歩く「無敵の人」は一定の割合で出現するだろう。そこまで行かずとも、社会にうっすらと悪意を持つ人の数は増えるだろう。これはストレスに対する正常な反応であるからだ。そもそも悪意がなくとも、長期間のストレスに耐えられなくなる人は多数出るだろう。ところがコロナ対策に重要なのは、社会のすみずみまでの協力である。対策なしにうまくいくとは考えにくい。

経済政策は、上記のすべて、あるいは可能な限り多くの項目に対処できるのが望ましい。

消費減税の効果

収入を奪われ、先行きも見えない人が、消費税分が割引かれたくらいで物を買うようにはなるとは考えにくい。むしろ消費を常に最小限に抑え、少しでも余裕があれば貯金するという行動が自然になる。

つまり消費行動の大きな部分について、消費減税は意味を持たない。

仕事の激減が常識となると、消費減税で消費を増やすことができるのは、すでに財を成した者だけだ。人里離れた田舎の別荘や、東京在住者の自家用車所有は増大するだろう。税収がある程度補われることが期待できるだろう。

しかしこれは産業全体にとって、非常に小さな意味しかない。

消費減税がいま社会に必要なこととは思えない。

他の政策は?

生活を成り立たせるだけなら、生活保護の拡充も有効だろう。たとえば申請を簡単にしておくとよいかもしれない。

しかし生活保護をメインの経済対策に据えることはできない。これは大部分の人には使いにくく、事務コストも大きく、産業変化のポジティブな面を損なうことが予想されるからだ。

生活保護は裁量が大きく、減額されることが多い。収入があればその分を差し引かれるだけではない。予想外の基準を適用されることで必要な行動がとれなくなる話もよくあるのだ(進学・奨学金などでよく聞く)。

社会的に低く見られる面もあるため、忌避感も強い。生活保護の利用者が減るのは良いことだと考える者もあるが、需要を追加するための経済政策の執行規模が小さくなるのだから、これは悪いことである。

また、労働への逆インセンティブも大きい。収入分は差し引かれるので、働かない方が得なのだ。

産業構造が変化するなら局所的には労働需要が生ずるものだが、この逆インセンティブがあると、新産業への労働移転を減らしてしまう。これは新産業の生産性に悪影響を及ぼす。

そして事務コストの大きさの影響も無視できない。過剰な事務コストは、日本では「自治体公務員の過労」という形で出る。ただでさえ足りない現場の余力を取られるのは望ましくない。

生活保護はコロナ下で失業が大きく増えた場合にも経済政策の柱にはなりえないだろう。全体的に筋が悪いのだ。

 

経済対策として必要なのは、まず第一に生活が成り立つようにすることだ。しかしそれだけではなく、先行きの不安をなくすことも必要だ。人間は心が出した予想で動くものであり、先行きに不安がなければ今を平穏に過ごすことができるからだ。

やっぱベーシックインカムだよね 

この状況にもっともよくフィットする経済政策はベーシックインカムである。

ベーシックインカムは、最低限の生活費を全員に支給する政策だ。実装方法はいろいろ考えられているが、オレは給付付き税額控除(負の所得税)が良いだろうと考えている。これは一定額を給付しつつ、所得税の計算においてはこの額を収入に合算する、というものだ。このようにすると、非課税世帯には給付額の100%を、課税世帯では所得税率を減じた額を給付するのと同じ効果がある。(フリードマンが最初に提唱したアイディアは固定所得税率と併用した給付だが、ここでは累進課税を維持したバージョンを使う。)

ベーシックインカムには次のような作用がある:

  1. 最低限の生活が成り立つ
  2. 収入が絶える心配がなくなる
  3. 以上を労働意欲を削がずに達成する

まさに生活の保証と先行き不安の解消に効いてる上に、産業の変化を後押しするではないか。

 

1.は社会不安によく効く。鬱に一番よく効く薬は現金だ、といわれるくらい、生活資金の不安は心に悪い。これを緩和することは、社会の活力を保ち、犯罪率を下げるのに非常に有効だろう。

また、現金を補って社会を明るくすることは、防疫措置としても有効である。感染爆発を防ぐには長い封鎖が必要だが、人間の普通の心はこれに耐えられない。

この封じ込めが成功するには、社会の広い協力が欠かせない。「国は何もしてくれない」と思う人が出ては駄目で、全員に「あなたを見捨てませんよ」というメッセージを出す必要がある(もちろん「メッセージを出す」とは口だけで良さげなことを言うことではなく、行動でその意志を伝えることを指す)。

お金を配ることは、不安を取り除くだけでなく、協力を促す強いメッセージになる。

コロナ対策の成否を金銭的価値に換算することは容易ではないが、リスク学は損失余命に換算することでリスクを定量化し、比較することを可能にしている。

リスク学分野の長老、中西準子氏の『環境リスク論』(1995年岩波書店)ではこれを水銀リスクの排除を例に取って論じているが、カセイソーダ製造工程のそれ(がん等量1人あたり200億円)と乾電池のそれ(同2.5億円)を比較し、「大体今のわが国の環境対策として妥当なレベルは、一発がんリスク等量削減の費用が数億円以下ということになろう。」としている。ここで「がん等量」とは、10年間の余命損失を指す言葉である。

新コロナウィルスの重症リスク、死亡リスク、人口に占める割合はすべて高齢者が大きいので、死者を高齢者(死亡時の損失余命平均15年、人口に対する割合0.5)、中年者(損失余命平均35年、人口に対する割合0.4)、若年者(損失余命平均55年、人口に対する割合0.1)と仮に重み付けしてみると、全体の平均損失余命は27年、がん等量の2.7倍である。妥当とされる「数億円(時代が進んだことによる命の価値の増加は考慮しないものとしている)」を、安く済んだ乾電池の1人等量2.5億円より少しおおきく3億円で代表すると、新コロナウィルスにおける1人あたりの妥当な対策費用は、3x2.7=8.1億円ということになる。

というわけで、コロナ対策の成否にたとえば10万人の追加死亡がかかっているとした場合、妥当な対策費用は 10万 x 8.1億 = 81兆円 である。人口あたりで見ると、各国の対策規模はこれより大きいが、この規模の対策が妥当と考えられていることに得心が行く。

 

2.の「収入が絶える心配がなくなる」は、1.の生活保証の効果を増強する。また、産業振興の文脈が持たせられる。

これは、収入の見通しがついていれば、貯金を使い切ってもよいことを納得できることによる。不要不急なもの、あるいは、不要不急とされているが実は不可欠なものに、お金が使えるのだ。

FORTUNE500の経時変化を紐解くまでもなく、21世紀は不要不急こそが主要産業だ。数年間の防疫のために、これを潰すことがあってはならない。

生活不安のあるとき、癒やしはもっとも必要でありながら、もっとも諦められやすいものだ。収入が保証されていれば、癒やしにお金を使うこともできる。心の安定に大きな効果があるだろう。

それだけではない。先行きの保証があれば、個人のクリエーターも安心して自分の世界に打ち込むことができるようになる。これは将来に渡って大きな財産になるだろう。

生活の見通しが立っていれば需要にも供給にも良い影響をもたらす、ということだ。

 

3.の逆インセンティブ防止は、ちょっとわかりにくいかもしれない。これは追加の収入にあっても、実質給付がほとんど減らないことによる。(額面給付に至っては収入に関わらず一定だ。)

No.2260 所得税の税率|所得税|国税庁 によると、所得区分ごとの所得税率は以下の通りである:

所得税の速算表
課税される所得金額 税率 控除額
195万円以下 5% 0円
195万円を超え 330万円以下 10% 97,500円
330万円を超え 695万円以下 20% 427,500円
695万円を超え 900万円以下 23% 636,000円
900万円を超え 1,800万円以下 33% 1,536,000円
1,800万円を超え4,000万円以下 40% 2,796,000円
4,000万円超 45% 4,796,000円

これは控除後の所得による表なので、ベーシックインカムがあればそのまま加えることができる。

まず表にはないが、収入が103万円以下であれば非課税となるので、60万円を差し引いた43万円以下の年収しかない人は60万円をそのまま受け取ることになる。

所得が4000万円超であれば、所得の4000万円を超える部分に対して45%の税率が課される。60万円の給付は55%である33万円と同じことだ。ここまでは簡単だろう。

それでは収入が増える場合を考えてみよう。

所得110万円の人が60万円の給付を受けて所得170万円になるとき、そこにかかる税率は5%なので、実質的には57万円の給付を受けたことになる。

この人が翌年に収入を増やし、150万円の所得があったとする。増えた収入は40万円。給付の60万円を足し合わせた合計額は210万円だ。この場合、給付のうち45万円分には税率5%が、15万円には10%が適用される。すなわち実質給付は45*0.95+15*0.9=42.75+13.5=56.25万円の給付だ。実質の給付は7500円減るだけである(額面の給付は60万円のままだ)。

これはもっと大きな変化でも、小さな変化でも同じだ。実質給付額は逓減するが、収入を増やす努力は常に正しく収入を増やす。これなら労働意欲をくじくことがない。

労働に対する逆インセンティブがないことは生活保護に対する大きなアドバンテージである。新規の労働が給付を大きく減らすことがないので、労働市場への副作用を小さくしてくれるのだ。また、「生活を保証すると怠ける」などといった声に反論することもできる。

バラ色?

ベーシックインカムと同じくらい優れた副作用を持つ予算措置をオレは知らない。減税よりも、生活保護よりも、もちろん株価の維持よりも、ずっと有効だと思う。

もちろん、この政策のコストは巨大である。国民一人当たり年間60万円を支払えば、年間75兆円くらいかかる。コロナ対策には81兆円以上の支出が妥当であるとしても、丹念では意味がない。収入見通しを明るくしないベーシックインカムは、あまりお得ではないかもしれないのだ。また、年金などの社会保障制度を統合するなどの案はすべて強烈な反対を受けるだろう。苦難の道だ。

しかし今回の新コロナ防疫は社会を変える。コストはいずれにしてもかかるし、小出しに逐次投入すれば、あっというまに数百億になるだろう。

オレはベーシックインカムが一番合理的だと思う。賛同者が増えることを期待したい。

COVID-19の怖さがわかりにくいと気づいてから考えたこと

違和感の始まりはちきりんさんのこのエントリだった:

chikirin.hatenablog.com

内容をまとめると、

  • まだ死者の多くない新コロでここまで心配するのが不思議だった
  • 専門家の中に警鐘を鳴らす人がいることがわかってきた
  • 専門家が言うんだから本当に危ないんだろうと結論づけた

という趣旨だ。

オレが不思議に思ったのは、これほど聡明な人が、危険性を自分で理解せずに、専門家が言ってるんだから危ないはず、を結論としていることだった。

ちきりんさんは毀誉褒貶あるけど、自分の見たことを材料によくよく考え、普通の人が見えないところまで見てくる点では間違いがない。各種の統計や株式・商品市況のデータをきちんと見るだけでなく、店舗に足を運び、テレビにまとめられた情報の裏側を推察し(テレビは基本的に良質な情報を集めてくる。集めた情報を「馬鹿な人向け」にまとめ直してしまうだけだ)、最終的に自分の肚に落ちたストーリーとして語る人だ。

そんな書き手が、人任せの理解で「どうやら危ないらしいです」と言っている。これはけっこうな違和感だ。だって自分は、理解がそれほど難しい話だとは思っていなかったから。

普通に見れば、COVID-19がインフルエンザより危険な点は明白だ。

  • (インフル同様)悪くなれば死ぬのに加え
  • 基礎免疫がないので感染の広がりが速く
  • このため重症者が医療資源の容量を超え、あふれた患者が死ぬ

である。

ところが細部に立ち入ってみると、これが案外と説明しにくかった。友人と話し合ってみて気がついたのだが、インフルエンザとの差異は、実は非常に微妙なところにある。聡明な人が丸投げみたいなことをするのも当然のことだ。

オレも疫学は素人だけど、生物学を学んだ者の中では数学に忌避感がない方ではあるので(得意とは言ってないw)、自分の理解の範囲で解説を試みてみよう。

新型インフルエンザとの違い

それでは考えてみてほしい。たとえば新型インフルエンザ(2009年のH1N1など)と比べた場合、COVID-19は何が違っているのだろう。

みんなが免疫を持たない点は同じだ。致死率は同じか、少し高い程度だ。基礎免疫がなく広がりやすい点も同じ。感染力(基本再生算数)はインフルエンザのほうが大きいくらいである。要するに、同じようなものに見える。

ところが実際にはCOVID-19の方が、新型インフルエンザよりもずっと医療崩壊を起こしやすいと認識され、だから恐れられている。これはなぜだろう。

「より医療崩壊を起こしやすい」理由として、オレが考えつくのは次の3点だ:

  1. 軽症・無症状の割合が高いため、基本再生算数の分散varianceが大きい(ただし極端に大きくはない)
  2. 治療薬がないため、重症化率を下げることができない
  3. ひとたび重症化した患者は医療資源を長期間(2-4週と言われている)専有する

1.は専門家会議がアナウンスして批判された「若者は特に注意してくれ」にまつわる話だ。あの説明では批判はあって当然かも知れないが、彼らは正しいことを言っていた。

危険の本質は、高い割合で存在する無症状者に感染性があることだ。

基本再生産数とは、1人の感染者が何人の二次感染者を出すかを表現する値である。これは病原体の特性である程度決まるが、状況や人々の行動によっても変化する。

この値は、多数の症例を1つの値で代表した「一人あたりの平均値」である。分散とは、複数の値を代表する平均値があったとき、個々の値が平均値からどれくらい外れているかを示した値である。

感染症の基本生産数の分散が大きい、というのはオレの独自表現だが、たぶんプロにも通じるだろう。これは患者の誰もが同じくらいの二次感染者を出すのではなく、大多数の患者が以後の感染をまったく引き起こさないのに対し、二次感染を繰り返し起こすような患者が存在する、ということである。

こう書くと「スーパースパレッダー」の話かと思うだろうが、そうではない。スーパースプレッダーとは「病原体の特性から普通には考えられないほど多くの他者に感染させた患者を数学的に定義したもの」であり、こうした患者・状況が存在すると、分散はとても大きくなる。COVID-19の場合、スーパースプレッダーの存在はあまり言われていない。

そうではなく、通常の2次感染者数の期待値の範囲の中で、「比較的多数を感染させる患者」が「数多く」存在しうるのである。これは特定しにくいという点で、スーパースプレッダーよりも怖いかもしれない。女王アリが1匹の種よりも複数女王が分散する種のほうが駆除しにくいのと同じだ。

 

2.は過去の、あるいは手遅れになったインフルエンザと同様の危険性だ。COVID-19では「重症化=(インフルエンザにおける)手遅れ」なのである。これがあるので、ICUに入りうる患者の割合は高く保たれる。これは3.とも関わって危険性を増大する。

 

3.はターンアラウンドの問題だ。

たとえば、重症化してICU入りする患者が1日100人出る病気があるとする。患者がICUを出られるようになるまでの期間が平均で3日であれば、その地域のICUベッド数は300で(ギリギリだが)足りる。ところがこの平均値が4日であれば、ICUベッド数は400必要になる。300しか無ければ、あふれだ患者(400-300=100)は全部死ぬ。4日目ごとに100人死ぬので、1日あたり平均値では100/4=25人ずつ死ぬ。5日かかるなら4日目と5日目に100人ずつ死ぬので、200/5=40人ずつ死ぬ。これは"(患者発生数-ベッド数)/回復日数"という式で表現できる。

(もちろんこれは非常に単純化したモデルですべてが不正確だ。たとえば患者の回復は確率的事象だ。しかし人数レベルに着目したとき起きる結果に大きな違いはない。)

平均20日かかるのであれば、(2000-300)/20=85で約85%が死ぬ。

しかもこれは重症化する患者数が100という一定値の場合である。感染症において、人口の大部分が免疫を持たない段階の場合、患者数は指数関数(e^at)*n(nは基本再生算数R0を項とした値、tは日数、nは初期患者数)で増え、それに比例した重症者が出る。掛け算に足し算で対抗するようなものだというか、さらに大幅に分が悪い。

それぞれの要因への対策

COVID-19に特有の危険を述べた。

  1. 基本生産数の分散が大きい
  2. 重症化率を下げる方法がない
  3. 重症期間が長い

このうちいま現在できることは1.の基本生産数への介入だけである:

  • 接触を避ける
  • 消毒を徹底する(手洗い・ドアノブ拭いなど)

といったことだ。なんだそれだけかよ、という感じだが、よく言われるように、われわれに出来ることはそれほど多くない。

ところが、無症状感染の割合が高いことを前提にすると、もうひとつあるのに気がついた:

  • (自分が感染を起こしていという前提で)マスクを常用する

である。日本人が「エビデンスがない」と言われながらも儀式のように続けてきたマスクが、実は爆発的流行を止めているかもしれないのだ。びっくりだ。

しかしこれは無症状感染からの二次感染の予防措置として非常に有効であろう。マスクは感染者からの二次感染の防止にこそ有効な手段だからである。

(現在の日本の流行レベルの低さを説明できる要因って、ほとんどこれくらいしかないように思うのだが、いかがだろうか。)

 

2.の重症化率については治療薬待ちである。大急ぎで進められているが、治験プロセスに不可欠な時間もあるので、これには1年はかかるだろう。

治療薬ができると、感染しても重症化を防げるので、危険性は大きく減る。そうすると対策がおろそかになって感染者数は増えるだろうが、それにより起きるのは集団免疫の獲得だ。

これがもっとも本質的な対策となる。1.の基本生産数への介入は、ワクチンがなければ経済への悪影響を伴うので、無限に続けることはできない。「薬ができるまでの辛抱だ」が合言葉になるだろう。

 

3.の重症期間を短縮にもっとも有効なのも治療薬である。ただし他の対策として、ICUベッド数で表現していた「医療資源」を増やすという手がある。

たとえば、現在は数が少なく管理に専門家が必要で増やすことが出来ないと考えられている人工呼吸器を、どうにかして増やすというのが考えられる。

つまり、a. だれにでも簡単に使える機器に代替し b. 量産する ということだ。

これは「呼吸管理の専門家を急造してあとで冷遇する」よりずっとよいように思う。

こうしたゲームチェンジングな対策を日本人はたいへん苦手なのだが、きっとどこかで起きることなので、日本でもやっておくとよいだろう。

まとめ

このウィルスの危険性の細部は、危険性を理解しているつもりの人にさえわかりにくい。

「COVID-19は確かに非常に危険である」と捉えていた(プロを除く)人たちの多くが、医療崩壊を引き起こすこのウィルスの特性を明確には意識していなかったように思う。

たとえば、集団免疫を獲得するまで感染を低いレベルで抑えれば数ヶ月で片がつくという、いわゆる"flatten the curve"が成立すると思った人は、オレを含めて全員、その時点では、このウィルス独特の危険性を正しく認識していなかったことが明らかだ。

このウィルスは勘違いを起こしやすい。そして勘違いして対策を緩めると、予想外の(指数関数的な)患者数増加により多数の死者が出る。これが共有すべきストーリーだ。

なかなか難儀なことだが、薬ができれば解決するはずである。

それまで1年がんばろう。おまもりのマスクを忘れずに。

非科学政治の限界

各国のコロナ対策、特にイギリスやドイツから出てくるメッセージを読んでいると、政治の形と、それを担う政治家のバックグランドに意識がゆく。日本の政治家が見劣りする、というだけの話ではない。過去の日本の政治家とは何が違ったかと考える。

宮澤さんあたりまでの自民党と今の執行部メンバーの一番大きな違いは、「これを絶対に大事にする」という、本人の心に刻み込まれた価値観の有無だろう。

刻み込まれた価値観とは、行動を掣肘する定規のようなものだ。戦場をくぐった中曽根康弘、同じく予備学生だった安倍晋太郎、戦前の大蔵官僚だった大平正芳宮澤喜一、極貧から土木を軸に身を起こした田中角栄。彼らには自分の価値観が刻み込まれていた。

確たる価値観を持つ相手には、哲学のぶつかり合いという形での異議申し立てや、すり合わせの意味での議論が成り立つ。

ところが、もともと大事にしてるものがない相手には議論ができない。依って立つところがなければ、どこまでも撤退できる。こうも言えます、ああも言えますと無限に逃げ回り続けるだけで相手は疲労していく。これが昨今の国会の実態だろう。

「地盤がMOTTAINAI」だけで人生が決まってた二世議員たちには、自分の価値観を涵養する機会は無い。時代が強制する嵐のような経験も、深く傾倒した学問も持てない。そもそも強烈な体験からは切り離されて育つのだ。彼らはいつもキョロキョロして「立派さ」を取り繕おうとする。しかし自分の中に大事なものがないので、前人の踏襲という形でしか行動できない。野卑な言動や強権でごまかそうとするのも同じだ。自分というものがないから、それを持ってた人たちが突発的にやらかした目立った行動を、外形的になぞるしかないのだ。

普段はそれでも成り立つかもしれない。それは立場の維持にはとても役に立つからだ。しかし、未知の場面において前人は参考にならない。ふだんなら決めてくれる官僚も決めてくれない。「これがボクの価値観なんじゃないかな」と一部の者が採用してた「伝統」なるものには実体がない。そのことに気がつけるほどは伝統というものを深く見てもこなかった。立ち尽くすことしかできないのは必然だ。

彼らは他国の首脳が持つ科学というツールも持っていない。

専門家を軽視し、集合的に扱っておいて「総合的に判断する」。それは専門性を持たない彼らがアイデンティティを保つ手段である。科学は専門家社会で重んじられる体系であり価値観だ。軽視している相手の哲学を自分の内側に取り入れられる人は、なかなかいないだろう。

周囲で知恵を授けてくれる官僚も同じだ。これは政治家と同様のジェネラリスト重視な職業的バイアスもあるが、よく言われるように、マジョリティが法学部出身者で占められていることも大きいように思う。

法学部的価値観は自然科学と同様に論理を用いる。ただし、その相手は自然ではなく人間であり、それが作用するのは形而上的な人格に対してである。

法体系は論理の集合であり、そのすぐ外側のメタな部分を切り離して考える。こうした切り離しは、その体系を共有する人間同士を律するには非常に優れているが、論理が実態を反映することを保証不能にする。

そんな雑な方法論が21世紀に通用するはずがない。現代とは未知の物事の次々に起きる世界であり、それは自然そのものであるからだ。

自然に対して法は適用できない。

日本の統治のもっとも時代遅れな点はここにあるだろう。

科学は自然を相手にする。論理は理解のためにある。組み立てた論理がうまく適用できない場合、間違ってるのは自然ではなく論理の方である。集合的な、あるいは動物としての人間は自然物であり、科学が適用できる。

科学の本質は公開だ。それはデータを共有し、思考をぶつけ合い、多数の専門家が検証することで進む。間違った方向に進んだ場合は、公開物を後から再検証することで、どこでどのように間違ったかわかる様になっている。それはデータの品質のような細部についても規定する。定性的より定量的、単発的より経時的、単なる数字よりは割合を反映したものを、といった基準が培われる。

つまり科学とは、確実に前進するための方法そのものだ。

自然の理解にどうしても必要だったこの方法が、為政にも利用可能であることは、おそらく特に意識されていたわけではない。「知の自由競争」という価値観が、民主主義と科学という2つの場所に根付き、双方から歩み寄って現代に結実しただけだ。

定量化して全体の景色を見えるようにする。問題を特定する。人に依らずに解決を進める。こうしたプロセスの細部を理解できる為政者だけが、21世紀にも不幸の少ない国を作れる。

日本の為政者がせめて、アジア文化の強さを発揮してくれればよいと思う。すなわち「横並び意識と模倣」だ。

もちろん結果だけ模倣すれば済むという話ではない。科学者出身の政治家に交代すべきだ。しかしそんなことをしている暇は今はない。結果すら模倣しなければ、非常に多くの人が不幸になることは、いまわかっていることから明らかだ。

われわれには選択肢がない。

今後の選挙では、この無力感を常に思い起こそうと思う。

方向転換に必要なもの

www.technologyreview.jp

 

定性的には正しそうだけど定量的に検討すればおかしい、というのは非常に陥りやすい罠だと思うんだけど、

「集団免疫を獲得できると期待していましたが、集団免疫アプローチでは事態に対処できないことがわかりました」と記者団に語った

と、あやまちを認めて方針を変更した。ほんとすごい。

これが日本で無理な感じがするのはなんでだろうと考えるんだけど、

  • 無謬の前提がある。
  • MOTTAINAIが発動する。

あたりかなと思う。

前者は、大きな方向性の変更が「だれかの責任」になるということ。

後者は、サンクコストが捨てられないということ。別の方向が見えたら「今後かかるコスト」で数量的に比較されるべきだが、それまでに投じたコストに意識が持っていかれて判断が鈍る。というか、「それを捨てる」ということに宗教的忌避感がある。無謬の前提すらMOTTAINAI感覚の正当化として出てきてる感がある。

「早すぎる最適化」ってのも日本の宿痾だと思ってるけど、戦術の硬直をもたらすものという視点で見ると、かなり深刻なひとつであるような気がする。